イエスのみ心の祭日は、本来「キリストの聖体」の祭日に続く金曜日に祝います。"イエスのみ心"への信心は、17世紀にフランスで聖マルガリタ・マリア・アラコックが、神から啓示を受けたことから始まりました。その噂は瞬く間にフランス中に拡散しました。その後1856年、教皇ピオ9世はローマ教会全体で"イエスのみ心"を祝うように制定しました。また、この日を契機にフランスや他のキリスト教国では、"聖心"(みこころ)名を付けた修道会が沢山誕生しました。この祭日を祝う目的は、神様の愛をイエスの愛と献身を通して与える"イエスのみ心"に敬い讃えることなのです。
キリストの聖体とみ心の祝日を例年6月にお祝いしていたことから、6月は「イエスのみ心の月」として、自然に定められたと伝えられます。教皇ベネディクト16世は、書簡の中(2006年5月15日)で次のように記しています。「槍で刺し貫かれたイエスの脇腹を礼拝しながら観想することにより、わたしたちは、人びとを救おうとする神のみ旨を感じることができるようになります。・・・『槍で刺し貫かれた脇腹』の内に神の限りない救いのみ旨が輝いています。ですから、この脇腹を仰ぎ見ること(み心の信心)を、過去の礼拝ないし信心の形と考えてはなりません。刺し貫かれた心という象徴に歴史的な信心の表現を見いだした神の愛の礼拝は、神との生きた関係にとって不可欠なものであり続けます」と。また教皇フランシスコも「『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい』(マタイ11:28-29)。・・・『一人の兵士が槍でイエスの脇腹を刺すと、そこから血と水とが流れ出ました』(ヨハネ19:34)。ヨハネは、偶然的に見えるこのしるしのうちに、預言の成就を認めました。十字架上の生贄の小羊であるイエスのみ心から、人類全体に対する"ゆるしといのち"があふれ出るのです。しかし、イエスのあわれみは単なる感情ではありません。それは、いのちを与え、人間をよみがえらせる力なのです」と言われました。
み心の信心は、教会において大切な泉であり、キリスト教の中心的信心であると言っても過言ではありません。この"イエスのみ心"の限りない愛に対して、私たちの出来得る可能な限りの愛で応える信心の目的を日々の生活の中で実践して、このみ心の月を大切に過ごしましょう。