【1949年】
ハヤット神父は27歳の時、アメリカのメリノール宣教会司祭に叙階され、その年の8月来日、約9ヶ月間の日本語の勉強後、京都の河原町教会に助任司祭として赴任しました。
【1952年】
心のともしび運動の始まりとなる、あの善き牧者 の日曜日、ハヤット神父は"善き牧者に倣いて"という福音書の箇所を読み、その後で「皆、できるだけ祈りと犠牲、そして行いによって少しでも人々を教会へ導くように努めなければならない」と話し、その日、リーフレットを作って信者たちに渡し、友だちに配るように頼んだのでした。これが、「善き牧者運動」、後の心のともしび運動の始まりでした。さっそく、あちこちの教会の神父たちから希望が殺到、しかし、「リーフレットより大きいものを」という要望で、現在発行しております機関紙の大きさに変更し発行されるようになったのでした。
【1957年】
この機関紙が、かなりの教会で利用されるようになったある日、広告代理店、日商社の村田侑三さん(現在、日商社相談役)が「カトリック教会はラジオ放送をしないのですか」と言ってハヤット神父を訪れました。ラジオの放送を開始するには、莫大な費用がかかり、放送費用の捻出が不可能だと知っていた彼は、経済的理由とそれよりも貧しい人々への食物の供給が先決だと言って神父はあっさり断りました。しかし、村田さんの「学生時代結核を患い入院生活を送っていた時、ラジオを聴くことによって大変勇気づけられ、生きなければならないと思いました」という体験談は、ハヤット神父の心を動かし、日本に来る前に親戚や友だちから送られた約500ドル(当時のレートで18万円。大卒の初任給が1万円以下の時代)を使って放送する決心をさせたのでした。なくなれば中止しようと思って開始されたラジオ放送は決して中止されることはなかったのです。
放送局はラジオ京都、現在のKBS京都ですが、ハヤット神父は、担当者から「毎日異なる宗教を放送する時間で、15分間の番組を作成して欲しい」と要求されましたが、「短い話を5分間、毎日放送したい」とハヤット神父は強く希望しました。当時は画期的なアイデア「帯番組」と呼ばれるもので、「絶対できない」という担当者からの返事でした。
しかし、ハヤット神父の熱意は帯番組"心のともしび"を実現させました。最初は近畿地方だけでしたが、数年後には全国津々浦々までラジオ番組"心のともしび"が届けられるようになったのでした。
ラジオ放送を実現させたハヤット神父は、6ヶ月の休暇をとり、故郷アメリカヘ。彼は休むことなく、故郷シアトルのあちこちの教会を回り、放送費用を捻出するため、 援助会員になってくれる人々を募ったのです。彼は多くの貴重な献金を携え、日本でのますますの宣教に心弾ませ帰国したのでした。
【1958年】
学生たちから英会話を教えて欲しいとの要望があり、ハヤット神父は宣教活動の一環として、英会話学校を設立、善き牧者運動のローマ字の頭文字をとり、YBU英会話学校を開校しました。
【1964年】
ハヤット神父は、毎週日曜日、河原町教会へ行き、ごミサを終えた外国からの信者たちを集め、援助会員になってくれるように頼みました。神父の願いに応え、次第に外国の会員は増加し、毎月献金が送られてくるようになりました。
この年、マクドナル神父がこの「善き牧者運動」に任命され、善き牧者運動は「心のともしび運動」と名称が変更されました。そして、マクドナル神父は、機関紙など出版物の編集に携わるようになり、またYBU英会話学校の責任者ともなりました。
さて、ラジオ放送の原稿は、1957年から7年間、ハヤット神父がすべて書いておりましたが、1964年になった時、カトリックの作家や、先生たちから執筆の協力を得られるようになりました。そこで、神父は、夜は執筆者の方々の原稿で"心のともしび"番組を放送し、朝は、新しくラジオ番組"太陽のほほえみ"の放送を開始、そのお話はすべてハヤット神父によるものでした。
ハヤット神父は、これら二つの番組の朗読者について、俳優座の田中千禾夫さんに相談しました。すると彼は、女優の河内桃子さんを紹介しました。当時、彼女は、朗読にはあまり乗り気ではなく、田中千禾夫さんの紹介でもありましたので、1、2ヶ月位経ったら断ろうと思っていたそうです。しかし、彼女は、34年間、休むことなく朗読を続けました。
ラジオ番組"心のともしび"放送1万回を記念し、祝賀パーティーが催された時、その席で、彼女は、「この番組は、私のライフワークであり、声が出る限り続けたい」とあいさつしました。残念ながら、そのパーティーから1年後の1998年11月、 亡くなる1週間前には洗礼という神様からすばらしい勲章を得て、マリア河内桃子として、天国へ旅立っていきました。河内さんは、病の床で、自ら、この番組の朗読者として、同じ俳優座の坪井木の実さんを推薦し、彼女の思いを託したのでした。
執筆者による"心のともしび"番組が放送されるようになった時、ハヤット神父はお話しが朗読される前に、何か聖書の言葉をと思い、田中澄江さんに相談しました。そして、選ばれた言葉が"心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も相手の胸に響かない"(聖パウロのコリント人への第1の手紙の13章を参考)。ベートーベンの調べとともに、この言葉が流れ、お話が朗読されるようになったのでした。
河内桃子さんによる朗読が約7年間続いた時、"心のともしび"番組が、朗読ではなく、執筆者の方々がマイクの前に立ち、電波を通して全国の聴取者の方々に語りかけるようになりました。これは1996年まで続き、また、以前のように朗読形式になりました。この年32年間続いた"太陽のほほえみ"の放送は終了されました。
【1965年】
ラジオによって全国の家庭に"心のともしび"番組が放送されるようになった時、ハヤット神父の夢はテレビの世界へと広がっていき、彼が、テレビ番組の制作に乗り出したのは、ちょうど、テレビが全国の家庭に普及し始めた頃でした。
ハヤット神父は、大阪の読売テレビ局でいろいろな職業を持つ人々のドキュメンタリー、5分間番組を制作しました。しかし、これは、あまりにも短かすぎたため、次に1時間30分の「意義ある人生」という映画を制作しました。これは看護師さんにまつわるお話しで、この映画の主人公に当時、松竹の女優でカトリック信者でもあった鰐淵晴子さんに白羽の矢をたてました。ところが、彼女は多忙とのことで妹の鰐淵朗子さん主演で作られました。
幸運にもこの映画の評判が大変よく、あちこちで上映され、京都の松竹座で上演された時には映画館が満員になり、映画館の支配人が「かつて、あれほどの観客の涙を見たことがない」とハヤット神父に語ったほどでした。なお、これは宮内庁でも上演され、皇族の方々に見て頂くという光栄に浴したのでした。
続いて制作されたのが30分間の「6人10脚」で、これは、自動車事故で歩けなくなった小学生と同級生の友情物語でした。この映画は、日本のみならず、アメリカの全国ネットで放映され、第28回ヴェニス映画祭で、児童映画部門で1位に輝きました。
何本かの映画を制作し、テレビで放映することができたものの、費用がかかり制作することは不可能でした。そこで、ハヤット神父は、少なくとも週1回、毎週同じ時間に対談形式の番組で全国ネットでの放映をといろいろ試みましたが、実現できませんでした。なぜならほとんどのテレビ局が、宗教団体の番組を放映しないという方針をとっていたからです。
そんな時、ラジオ京都の社長から「外国からのタレントを呼んでくれないか」という依頼がありました。そこで、ハヤット神父は、アメリカのボーイズ・タウン合唱団を招待。6週間、全国のカトリック教会と学校で公演、各会場は満員となりました。東京の聖心女子大学で公演された時には、当時の皇太子、皇太子妃(現在の上皇、上皇后両陛下)のご臨席を賜ったのです。しかし、この合唄団はそれほど有名ではありませんでしたので、一般公演することはできませんでした。
「こんどは、有名なグループを呼んでほしい」と、再びラジオ京都の社長から頼まれたハヤット神父はニューヨークへ行った時、外国のタレントを紹介するテレビ番組の司会者でカトリック信者でもあったエド・サリバンに会うことができました。
そこで神父は彼から、その番組に出演したイギリスのハーメンズ・ハーメッツを紹介されたのです。そのグループはビートルズほど有名ではありませんでしたが、日本での公演は大成功でした。公演を終えた彼らは帰国途中アメリカに立ち寄ったのです。
「心のともしび運動主催で日本へ行って大変よかった」と言うハーメンズ・ハーメッツの話を聞いたいろいろなタレントから「ぜひ、日本へ紹介してほしい」という依頼の手紙がハヤット神父の元に殺到したのです。その中に、ウイリー・メーズという有名な野球選手からの手紙がありました。「オールスター・チームを作るので、心のともしび運動の主催で日本のオールスター・チームと試合したい」と。
ハヤット神父はその手紙を見て大変驚き、読売新聞と日本テレビの創立者、正力松太郎氏の息子で面識もない正力亨氏に会うため東京へ向かったのです。当時、日本テレビの社長で読売ジャイアンツのオーナーであった正力氏にその手紙を見せるや、彼は大変興奮してこう言いました。「これは私の仕事だ。私に任せてください」と。そして、ハヤット神父はこう尋ねました。「日本テレビでテレビ番組"心のともしび"を放映する可能性がありますか」。
【1966年】
思いがけない正力氏との出会い、そして協力によって、日本テレビをキーステーションに全国ネットでのテレビ番組"心のともしび"の放映が実現したのでした。その後、日本テレビは、正力亨社長から、小林與三次社長に。この小林社長はテレビ番組"心のともしび"とカトリック教会の美術に対し造詣が深く、ある時、ハヤット神父を通じて、教皇パウロ六世との謁見をお願いしたのです。その後、小林さんは、教皇さま始め、バチカンの人々と親交を深め、その結果、日本テレビは、バチカンのシスティーン礼拝党の壁画の修復費用を申し出、12年間かけて完成させました。
【1970年】
この頃から、ハヤット神父とマクドナル神父は、全国の教会を回って援助会、賛助会員を募り、心のともしび運動の活動支援をお願いするようになりました。これらの人々の貴重な献金によって、マスコミによる心のともしび運動の宣教活動の継続が可能となったのです。
【1972年】
"心のともしび"テレビ番組は、アリタリア航空会社の協力を得て、スタジオを飛び出し、イスラエルで遠藤周作氏の"イエス様の生涯"が撮影されることになりました。その時、航空会社から、「巡礼者を募って欲しい」と、ハヤット神父は依頼されたのです。今から約40年前のことです。当時、外国への巡礼団はほとんどなく無理だろうと思いながらも巡礼者を募集すると、約80名もの応募があり、ハヤット神父は喜んで巡礼団を作り、ローマ、イスラエルを訪問しました。この時、遠藤周作ご夫妻、三浦朱門、曾野綾子ご夫妻、日商社の村田社長らも参加、この旅は、"イエス様の生涯"の番組を成功させ、また、巡礼者たちにとっても有意義で感動的な旅となったのでした。
その後、ハヤット神父は、当時、旅行会社の社長であったフィリップ・グセル氏の協力を得て、年2回、夏と冬の巡礼の旅を企画しました。約25年間続けられたこの聖地巡礼の旅は、信仰ある人には、さらに深い信仰を、また、まだ神様を知らない人々の、ある人々には、受洗というすばらしいお恵みが与えられたのでした。
【1977年】
この年、ラジオ番組"心のともしび"の執筆者、曽野綾子さんによる文化放送での"曽野綾子の今日を生きる"が開始され、この週1回の番組は約10年間続きました。その後、女優の村松英子さんにバトンタッチ「村松英子の今日を生きる」が始まり、それは「村松英子のあなたとともに」と番組名が変更後も数年間放送されました。これら番組も多くの人々の心に光をともし続けたのです。
【1981年】
教皇ヨハネ・パウロII世は、教皇として初めて来日。"平和の使徒"として、日本中の人々をお茶の間のテレビの前に釘づけにしました。テレビ番組"心のともしび"では、教皇さまの訪日4日間の特別番組を制作し、大成功のうちに終ったのでした。
その後、イエス様の足跡をたどった聖地巡礼の番組も制作されました。また聖フランシスコ・ザビエルを始め、聖イグナチオ・ロヨラや、アッシジの聖フランシスコ、聖ベルナデツタと聖テレジア、『長崎の鐘』の作者永井隆博士らのゆかりの地をたずね、聖人たちの生涯物語、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼の番組も作られ放映されました。
こうして、テレビ番組"心のともしび"は、神への愛のため神の平和の道具として働く人々、聖書の話、また、聖人たちの深い信仰物語を放映してきました。
【2002年】
ハヤット神父によって始められた心のともしび運動のマス・メディアによる宣教活動は、めでたく50周年を迎え、東京カテドラルマリア大聖堂において白柳誠一枢機卿様主式のもと、この運動を支えてくださった約1,000人の方々が全国から集い、盛大に50周年記念感謝ミサが感動のうちに行われたのでした。
【2009年】
心のともしび運動の創立者ハヤット神父が1月14日帰天し、マクドナル神父が、ハヤット神父の遺志を継ぎ、この運動を続けることになりました。