2020年08月30日の聖書の言葉

自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい(マタイ 16:24)

 かつて価値観について問うたとき、価値観は人によって異なること、また年代によっても異なってくることを教えられた。

確かに、個人にとっての価値観は、まさにその通りだと。

しかし、福音書の中でイエスの語られる価値観は、神の価値観であり人間の価値観ではない。

人間の価値観は、往往にして個人のエゴを基準としている。

それに対して神の価値観は、この世の被造物全ての共通善を基準としている。

ここに大きな相違がある。

 難しいけど、自我を捨て神の価値観に従うとき、全てが幸せに変えられると。

アーメン。


2020年08月23日の聖書の言葉

あなたはペトロ、私はこの岩の上に私の教会を建てる(マタイ16:18)

 自分は特別、隣人とは違う。そう思いたい、思われたい。

人には他人より優位でありたいと言った欲が時々見られます。

そのため損得勘定をベースに対象相手を迎合したり、見せかけのパフォーマンスでアピールするのです。

ところがイエスの目に愚かなことは、明らかです。

なぜならイエスは神の子であり、人の心を見抜かれる方です。

 イエスが神の子であること、弟子たちだけでなく私たちも「あなたは神の子イエス」と確信して、宣言できますように。

アーメン。


2020年08月16日の聖書の言葉

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(マタイ 15:28)

 格差社会、なんだか現代社会は、未だ途上国の形相を露見しているのではないだろうか。

聖書の中で見られる差別、遠い昔の出来事のように考えていたが、現実にあることを肌で感じているのは自分だけなのか。

あなたの中にそうした形相因のようなものが残っていませんか。

 イエスのみ言葉、慰め、癒しの業は、神からの賜物、その賜物に決して差別はありません。

特別な人にではなく、すべての人への賜物だから。

アーメン。


2020年08月09日の聖書の言葉

イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた(マタイ 14:23)

 イエスはみ言葉を実践された後、必ず、弟子たち、時に民衆を試みられます。

なぜならイエスは、お話ししたみ言葉を本当に弟子たち、民衆が理解しているかどうかを確認する為だからです。

ひょっとして弟子たちも民衆と同レベルで、奇跡的な出来事にだけ心まで奪われ、み言葉を理解していないと考えたからでしょう。

み言葉、それを聞いたものは、それが真実であることを信じ、実践し、確かで在ることを確信して生きること。

これこそ信仰の始まりではないでしょうか。

 さあ、あなたも感激して喜びに浸るだけでなく、今日聴いたみ言葉を実践して見ませんか。

アーメン。


2020年08月02日の聖書の言葉

弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が満腹した(マタイ 14:19~20)

 福音の中でしばしば見られるイエスの思い考え、そして弟子たちの思い考えを比較するとき、明らかにイエスの思い考えの方が、弟子たちのそれらを凌駕していることに気づきます。

その凌駕の程が、イエスの人に対する心遣い、思いやり、優しさ、慈悲心が、人知をはるかに優っていることです。

その慈愛が神の愛なのですよと、今日も福音を通して私たちに教えています。

 ただぼんやりイエスの優しさに甘えるのではなく、しっかりとその背後におられる神の愛を感じ取ることができますように。

アーメン。