2018年03月26日の聖書の言葉

わたしが望むのは犠牲ではなく、憐れみである(マタイ 9:13)

わたしたちの日常は、いつも誰かに支えられている連続です。

ある時には「支え主」が見える時もあれば、しかし、ほとんどは見ることができません。

絶えず感謝の心を抱きつつも、それを素直に表現し、伝えることができない時が多いようです。

それでも確実なのは、主よ、あなたの支えは均等です。

その恵みに支えられて、もっと主よ、あなたを知ることができますように力をください。

信仰を増してください。

アーメン。


2018年03月19日の聖書の言葉

おまえは塵であり、塵に返る(創世記 3:19)

主よ、わたしたちはあなたから派遣されました。

「塵」に過ぎない存在でも、「派遣された」からには分に応じた役割があります。

真摯に自分の存在を評価できますように。

人の評価に左右されがちなわたしたちですが、むしろ、その評価を糧にして、いつもプラス思考のうちに切り開いていけることを願い、祈ります。

主は、いつも、どのような状況下にあっても、前に進むように「わたし」を招いておられるからです。

アーメン。


2018年03月12日の聖書の言葉

彼らは悔やんで互いに言い合う(知恵の書 5:3)

物事が終わってしまってから、あれこれ悔やんでみても、取り返しがつかないことはわかっているのに、同じことを繰り返してしまう「わたし」です。

「主への道」をお示しください。

そして、主のみことばを学ぶように仕向けてください。

「学び」の繰り返しができますように。

アーメン。


2018年03月05日の聖書の言葉

わたしは今日、わたしの過ちを思い出しました(創世記 41:9)

生きている人間で、過ちを犯さない人はいないでしょう。

その中身には違いがあっても、「あやまち」です。

過ちを思い出すことは、時には意気消沈したりします。

その時大事なのは、そのことをその日の祈りとして奉献できるかどうかです。

「祈り」にできたらいいですね。

主よ、今日のわたしの過ちを受けとめてください。

癒してください。

アーメン。