
サン ミジャン教会(スペイン セゴビア)
③ヨーロッパにおけるカトリック教会の信徒使徒職の変遷-2
③の段階:20世紀に入り、益々信徒の活動が活性化する。19世紀の信徒使徒職的な団体活動に加え、ピオ11世が推奨し振興した、位階制度的使徒職へ信徒が参加する「カトリック・アクション」の団体活動があります。この活動を次の教皇ピオ12世は、ピオ11世の表現を少し変えて「カトリック・アクションとは、位階制度的使徒職への信徒の協力」と定義され、使徒職を目的として作られたすべての団体に「カトリック・アクション」と言う名称を適用すると承認されました。これらの団体活動は、今日においてしばしば批判的な目で見られがちです。しかし、その精神的根底に横たわる新しい教会理解は、遅々とした歩みにおいてではありましたが19世紀の聖職者主義を克服していき、やがて教会を「神の民」と規定する定義においてその頂点を極めることになります。そしてもう一つ見落としてはならないものに、20世紀初頭以降始まったエキュメニズム運動(教会一致運動)があります。この運動は、分離したキリスト教徒たちの接近問題に対する関心が高まり、第一次大戦直後、次の二つの運動の組織化を通じて具体化されることになりました。その一つは、英国国教会的傾向の強い「信仰と職制世界会議」であり、もう一つはプロテスタント的な「生活と行動世界会議」であります。これらは1948年に合体して、世界教会協議会を構成し、ジュネーブ事務局創設によってその頂点に達することになりました。しかし、これに対してカトリック教会は長い間疎遠な態度をとり続けていました。ところが第二次世界大戦の最中、ヒトラーのドイツにおいてナチズムに対する共同戦線が、カトリック教徒と告白教会のキリスト教徒を集結させたことをきっかけに、カトリックとプロテスタントの神学者・教会人の接触と対話への道が開かれていくことになったのです。これが後に、カトリック・エキュメニズム評議会の設立 (1951年、スイスのフリブール) によって拡大され、教皇ヨハネ23世によって教皇座までもがエキュメニカルな思考に向けて開かれる日の到来を準備していくこととなったのです。
このように多くの信徒の団体や組織、その中でもJOC(カトリック青年労働者連盟)やイタリア、フランス、ドイツ、イギリスにおけるカトリック・アクション、そしてローマにおけるピオ12世のもとでの信徒使徒職評議会といった運動は、信徒自らの情熱と要求とに応ずるものとして起こったのです。それゆえ、これらの変化は時宜にかなったものとして高く評価され、情熱をもって実践へと移され、そして新たな変化のための土壌が準備されていったのでした。ここに日本のカトリック教会との相違がみられるのです。
日本においても、迫害の江戸時代末期における同宿、看坊といった組講や、明治時代の女部屋、浦上十字会、大正時代における公教青年会、昭和時代に入ってカトリック・アクション等がみられますが、いずれも聖職者の厳しい指導下に置かれた下働きの役割として行われていた信徒による使徒職にすぎないのです。つまり聖職者側から一方的に押しつけられた信徒の使徒職であったと考えられるでしょう。
ヨーロッパにみられる信徒自らの要求は、聖職者の考える狭い求心的思考(個人が救われるために教会に入る)によって、別の世界を作るのではなく、現在生きている社会と共に歩みながら、より良い社会に変革していくことが重要であると判断し、そのためには、教会そのものが変革されなければならないと考えたからなのです。
近年においてこの考えは、ヨーロッパだけでなく、アメリカ合衆国、南米諸国においても急速に高まりました。その結果、教会の新しい自己理解と、現代世界に対する教会の新しい方向づけの必要性から、第二バチカン公会議が開催されるに至ったと考えられるのです。勿論、公会議開催の理由は、これだけではないかも知れません。しかし、公会議公文書の内容は、教会内の改革とともに、世界の発展から生じた様々な問題に向けられています。
「全世界に広がっている神の民が必要としていることに無関心であってはならない。特に物質的な援助、あるいは人的な援助を提供して、宣教活動を自分の任務としなければならない」(信徒使徒職に関する教令10項) と教会の諸団体に向けて述べられています。
第二バチカン公会議に端を発する新たな刷新の息吹きは、教会史の中で聖職者、修道者、信徒といういつの間にか区切られた枠を取り除いて、もう一度、初代教会に戻って同じ「神の民」としての全体像を取り戻し、キリストとその花嫁たる教会の愛のダイナミズムによって歩むありかたを促しているのです。
心のともしび運動 松村信也

サンタ マリア デル カミーノ教会(スペイン バレンシア州
③ヨーロッパにおけるカトリック教会の信徒使徒職の変遷-1
「信徒使徒職に関する教令」の締めにあたり、カトリック教会の歴史の中で開催された公会議は、なぜ開催されたのかを衆知しておく必要があるでしょう。何故ならいつの時代、どのような人でも、地位、名誉、権力のいずれかを手中にする時、あたかも自分が世界の中心であるかのように錯覚してしまうからです。カトリック教会の教理史を改めて振り返るとき、是非、一人でも多くの信徒の方に知って戴きたいという気持で、このページを追記させて戴きました。それは、いずれの時代の公会議にもいろいろなプロセスがあり、そこに聖霊の働きが開催へと導いていたことに気づかされたからです。
さて第二バチカン公会議では、カトリック教会の牽引者であるヨーロッパにおける聖職者と信徒の関係の変遷を見るとき、その中で信徒の積極的な使徒職の動きが見られます。 言うまでもなく、教会改革の牽引となってきたのは、ヨ-ロッパであり、第二バチカン公会議の変革も含めすべての公会議はヨーロッパの教会の必要に応じて、開催されたものであるということを我々は認識しておく必要があります。
これを前提として、聖職者と信徒の関係の発展段階をみると4つの段階に分けられます。それらは主として変革への多くの情熱に対して、答えがなされていたということを知ることができます。その段階とは、①強力な位階的教会と無力な信徒との間に、大きな隔たりが存在した(特に16世紀~19世紀)。②信徒が位階性の重要な助け手となる(19世紀から今世紀への変わり目の前後)。③信徒が位階的な聖職者の使徒職に参加する。つまり、信徒も使徒職の一端を担うカトリック・アクションを行う (第二次世界大戦後) 。④神の民として信徒が直接に教会の使命に参加する(第二バチカン公会議以後)のです。これらの変遷の中において、信徒の使徒職の動きがみられます。
それは②の段階から始まっている:19世紀の中頃以降、ドイツでは信徒の協力をより組織的に要請する推進運動が起こり、非常に活発な団体が、それぞれの必要に応じて沢山創られていった (これらは後にヨーロッパ諸国に広がっていく) 。例えば、マリア信心会のように純粋に宗教的な結社、良い本や好ましい出版物を普及するための団体、宣教を援助し移民 (ラファエル会) やプロテスタント地域に散在しているカトリックを支持するための団体 (ボニファティウス会) 、またビンセンシオ・ア・パウロ会とその他の慈善団体、更に、カトリックの学生や芸術家の団体、殊に徒弟や農民、労働者を集めてかれらの職業的利益を守り、同時に道徳的・宗教的連帯を計るための団体が創られていきました。
これらの団体の多くは信徒がリーダーとなり指導さえもしており、司祭はそれらに大幅な活動の自由を認めていました。19世紀におけるドイツのカトリック運動はしだいに聖職者との隔たりを狭めつつ発展していったのです。この影響は間もなくフランスに及び、益々増大していくことになりました。1903年には、イエズスの聖心への特別な崇敬を誓った信徒会が、レオ13世によってローマに設置されました。この信徒会の設置と初金曜日の聖体拝領の実施は、この時代を通して、聖心の崇敬と聖体の崇敬との間に存在していた密接な関係を浮き彫りにしています。そして、ピオ10世の時代になると更に頻繁な聖体拝領と子供の聖体拝領も勧められることになりました。このことから端を発し、第一次世界大戦以降の典礼運動 (マリア・ラーハのベネディクト会士達、特にオド・カーゼルを中心としたグループによって唱導され、カトリック青少年運動とクロスターノイブルクのピオ・パルシュの指導とによって広がっていった典礼刷新の運動は、しだいに他のヨーロッパ諸国にも浸透し始めていきました。ミサと聖体拝領、そしてまた聖書の朗読と宣教が、キリストの神秘体の実現の本質的な姿と捉えられ、小教区や種々の小グループにおいて実行されたのです。
心のともしび運動 松村信也