私が目指しているのは、天国に続く道です。
その道は一人では歩けません。まわりの人たちともに、神様に導かれなければ、最終ゴールに辿り着くことはできないでしょう。
しかし、それは誰もが歩ける道です。何も難しいことをする必要はなく、日常生活の小さなことや仕事を通して、まわりの人に愛を示し、幸せをもたらすように心がければ良いのです。
私は23年間小中学校の教師をしたあと、本や記事を書いたり、講演をする仕事に転職しました。
毎日、様々な場面で、考える一つのことがあります。本当に毎日毎日、大学生の頃から何十年もずっと考えてきました。
それは、「今日、神様は自分に何を望まれているか?」ということです。
もし、自分に神様が望まれることを考えてこなければ、創立間もない長崎の小さな学校に23年間勤めることはなかったでしょう。
また、本を何十冊も書くことも、講演をすることも、こうしてラジオ放送の原稿を書くこともありえませんでした。
いまの仕事は、いまの私に神様が望まれていることだと確信しています。ただし、仕事は何でも良いのです。もし神様が別の仕事を望まれるなら、別のことをすると思います。
大切なのは、その日常生活の小さなことを神様のため、人のために行っているか、なのです。自分が行うことが祈りになっているか、愛をもって行っているかが重要だと思うのです。
天国につながる道はいくらもあり、人によって辿る道は違うでしょう。
この放送をお聞きの方も、無論、天国への道を歩むことができます。神様に導かれながら歩くなら、この旅路は苦しくとも楽しく喜びがあり、その先に永遠の幸福が待っています。
「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来た。」(マルコ10・45)
この言葉は、私が司祭になった時に記念に作ったカードの裏側に印刷された言葉です。司祭としての第一歩を踏み出すにあたって、心に刻みたいと願った言葉でもあります。
イエス様が多くの人々、特に、社会からはじき出された人々と関わり、喜びにも悲しみにも人々に寄り添い、時に教え、神さまのゆるしを告げるなどされたその生きざまに、自分自身も倣いたいと思ったからでした。
司祭生活が25年を過ぎている今、改めて、今までの生活を振り返ってみると、果たして、どこまでイエス様の姿に倣うことができたかな、と自問自答しています。
駆け出しのころは、何もかもが新しく、挑戦の連続だったので、とにかく、もがいていた日々だったように記憶しています。そんな生活の中でも、イエス様の姿を思い浮かべながら、日々歩みたいと願っていました。
司祭としての生活に慣れ始めると、「何かを相手に伝えなければ」という誘惑に身をさらすことになりました。「仕えるため」に必要なことは、何かを話すことではなく、徹底的に相手から聴くことだ、と思ったからです。これは少々、私にはつらいことでした。学んできたことを披露したい、という誘惑を抑えて、相手から聴くことに徹するわけですから。
今でも、聴くことに徹しているか、と言われると、まだまだできていないこともあります。私は「仕えること」とは「徹底的に相手から聴くこと」と理解したのですが、これは一生涯かけて目指す道なのかもしれません。まだまだ道半ばですが、それでも、イエス様が人々に耳を傾け続けてきたように、私もその姿に倣い続けていきたいと思っています。