いろいろなマラソンのレースを沿道で応援するのは楽しみの一つである。目の前を過ぎて行く選手たちの速さや、放たれる気迫にはいつも驚かされる。選手たちは皆孤独に見え、勝つことを目指すプロスポーツは、なんと厳しく過酷なものかと思う。
大規模な市民マラソンであれば、プロ選手たちの後から、大勢の市民ランナーが走ってくる。早々と足が上がらなくなる人がいたり、皆苦しそうなのに楽しんでもいて、声を掛け合う様子などは、お祭りのように賑やかだ。
ランナーたちが走る「道路」は同じだが、進んでいる「道」は一人一人違う。マラソンの長い距離はよく人生に喩えられるが、その喩えに倣うなら、参加者1万人が1万通りの意味深い人生の道を進んでいるのである。
人々の前方にひらけ、そして後方に続く道。
日本では柔道、剣道、また茶道、書道というように、スポーツや習い事に「道」の字をつけて表してきた。それは単に技術を習得するだけではなく、技を身につけ、磨くことを通して、人が生きるべき道を求めていく姿勢を示してきたのだと思われる。鍛錬することで、人は心も強くなり、高い精神性を得られると考えられてきたのである。
自分自身がどんな人生の道を進んで来たかを振り返れば、未熟な失敗ばかりが思い出されて恥ずかしい。だが、どんな道であっても道の上にいるなら、それは必ずどこかに着くものだ。とどまらず進み、求め続けていればいいのではないだろうか。厳しく孤独な走りでも、仲間との楽しい走りでも、1万通りの走り方がある。「わたしを通って行きなさい」と手を差し伸べてくださる方が見える時もある。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」。 (1テサロニケ5・16~18)
これは私の最も気に入った聖書の言葉ですが、この言葉の後、聖書は次のように述べています。「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と。図らずも、私は、神が最も望んでおられることを自ずと実践していることに、たいへん嬉しく思っています。
いつも喜んでいることは、喜怒哀楽ある人間にとって、不可能なことです。だからこそ、「いつも喜んでいなさい」という強制的な命令形の教えになったのではないかと思っています。
喜びが途絶えた場合も「絶えざる祈り」をもって、喜びを回復するよう訴えています。このようなことで、喜びは途切れることなく持続し、自然、感謝の祈りとなっていきます。
元々の喜びは、どこから生まれるのでしょうか。パウロは「キリスト教徒の喜びは、飲食にあるのではなく、義と平和と聖霊における喜びである」 と語っています。聖霊が私たちの心に宿り、聖霊が喜びを生み出してくださるのです。
「喜べ」という命令は「祈れ」という命令に繋がっています。「喜べ」との命令が、自分自身や周りの出来事から目を離して、神に目を注ぐ姿勢を示唆しているように「祈れ」という命令も、神のご支配への信仰から生まれます。私たちの力は全く虚しく、内におられる聖霊の力のみ働くものです。だからこそ、祈りが必要となってきます。絶えず祈るべきなのです。
聖書は「目を覚まして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」と、このように祈りの必要を強調しています。(コロサイ4・2)