今こそ、心を一つにして!
新型コロナウイルスに立ち向かい、なんとかこの危機を乗り越えていこうと全世界の人々が警戒、自粛しつつ終息の時を待つこの時!
ところが、このようなときでも、わたし達の日常生活は淡々といとなまれていたのです。
田園風景がのどかに広がるこの地では、緊急事態宣言や外出自粛要請下でピリピリした大都会の緊迫感からは遠く、川べりの土手道をジョギングする人、犬を連れた人、幼い子どもや赤ちゃんを連れた人達が春の日差しの中を往き交っていました。
ヨモギやタンポポ、スカンポなどの野草がのびのびと生い茂り、空は水色、はるかな山なみは群青色、いつも見慣れている色彩の、青のシンフォニーがとりわけ鮮やかに・・・。
なんとゆっくりした時間がながれていくのでしょう。今までの、いつも何かに追いかけられてあわただしく過ぎていた時間とは「別もの」です。
小学生の男の子と愉しげにキャッチボールをする若いお父さん。なわとびをする女の子達。あら上手ね、と思わず声をかけたくなってしまう・・・。
そしていつもは混み合う週末の街や駅の静けさは別世界のよう。
白いマスクをしたひとりひとりが、魂の内へ内へと沈潜してゆく・・。街が静かであるように人々の心も(内に不安や怖れがあるとしても)自分と静かに向き合うとっておきの「ひとり時間」を抱きしめていたのではないでしょうか。この静けさは世界を変えるかもしれません。静けさは力を持っていますから。
この人類全体の苦しみは、ひとりひとりの中にあります。そうしていつもは見えていない他の人とつながっているのでしょう。
わたし達のマスクがそのしるしであるように。
イエスが弟子たちと最後の食事をした時、次のように祈られた、と聖書は伝えています。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」(ヨハネ17・21)
イエスが「父」と呼んだ神さまと、イエスご自身は、まさに一つでした。そしてこれは、この一致へとすべての人を招いてください、というイエスの思いが込められた祈りなのです。
ところで、イエスには弟子たちがいましたが、彼らの日常の論争テーマは「誰が一番偉いか」ということでした。これに対して、イエスは弟子たちの足を洗うという行動に出ました。他人の足を洗うということは、当時、奴隷の仕事だったようです。
弟子たちの足を洗った後、イエスはこう語りかけます。「『わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを「先生」とか「主」とか呼ぶ。...ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。』」(ヨハネ13・13~15)
「誰が一番偉いか」という論争の中で分裂しそうな弟子たちに対して、自ら模範となって、互いに仕え合い、一つになっていく道をイエスご自身は示されたのです。
この「一つになる」という願いは、のちの教会の中でも、切実な祈りになっていきます。迫害下にあった初代教会にとっては、「心を一つに」することは、実に切実な願いだったのです。
さらに時代を超えて、多くの危機に直面している現代の私たちにとっても「心を一つに」することは、切実な祈りとなり続けています。