今から30年以上も前のことです。将来、神父になることを夢見て、大学で神学の勉強を始めたころの話です。
頭をひねりながら、何とか理解しようと大学の授業についていっていた時のこと、ある本と出会いました。ぱらぱらと本を開いていたところ強烈な言葉に出会いました。
それは、自分が信じてきたことをひっくり返すほどのインパクトがありました。自分は神父への道を歩き始めたばかりなのに、それを否定するような言葉だったのです。
私はとても落ち込みました。歩き始めていた神父への道をあきらめようか、どうしようか、と。
そんな時、別の大学に進んでいた中学、高校の同級生にこの話をしてみました。特に、返事は期待していなかったのですが、自分の胸の内を語りたかったのです。
すると、彼はこう言いました。「自分は、キリスト教を信じることができないけれども、それを一生懸命信じている森田君はすごいと思うよ」
その時、私ははっと気づきました。信じることの大切さ、信じることの力に改めて気づかされたのです。理屈があって信じるのではなく、ただ信じること、信じ続けることの大切さを悟らせてくれたのです。
信仰とは、説明や理屈が先行するのではなく、神さまからの無条件の愛に気づき、それに対して、素直に信じて応えることなのでしょう。
この一言は、その後、自分自身が落ち込みそうになった時に、繰り返し思い起こした言葉でもあります。その後の私の信仰を支えてくれた言葉でもあります。
理由や理屈抜きにただ信じること、信じ続けること、そこに信じることの本当の力が現れてくるのだと私は思います。たとえ、それが他人から見て、とても小さなものであったとしても。
73年生かされてきて、その時々で心に響く言葉は数多く聞いた。
その中でも年を重ねるにつれて、私の心に深く深く入り込んでいった言葉は、父の言ったことである。
「ミンコよい、この世のなかで大事なことは目に見えんもんが多かとよ。まずは空気じゃろう。空気がなかったら、人間は生きていきやえんとよ。それから他人の心も見えんじゃろ。心は大事じゃっとにさ。それから一番大事かとは神さま。神さまは見えんばってん、365日、一日24時間ずっと人間ば守ってくれとるとよ」
本当にそうだなと思う。
現実的な話になるが、父は下着について一家言を持っていた。
明治生まれで九州男児の父が、女の子3人に常に言っていたのが「下着はさ、他人からは見えんばってん、見えんからこそ、いつもよかとば着とかんばよ。上だけ飾っとってもさ、いざという時、たとえば事故かなんかにおうて病院に運ばれた時、みすぼらしか下着で横たわっとったら、父ちゃんも母ちゃんも恥ずかしかけんね」であった。
だから私たち3人姉妹は、上に着る物より、下着の方に重きを置いて暮らしている。
亡き弟に生前その話をした時、弟も「ぼくも父ちゃんに同じことを言われた。だから下着には気を使ってるよ」と教えてくれた。
この話は女子大の講演の時によくするのであるが、若き女性の心に響くのか、いい話を聞いた、自分も下着の方にお金を使いますと、後日、お便りをいただく。
父が帰天して今年で51年になるが、この言葉はずっと私や私のきょうだいを支えてくれている。