夏の思い出

新井 紀子

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 江間章子作詞、中田喜直作曲、「夏の思い出」という童謡が私は大好きです。夏に訪れた尾瀬の思い出を歌った曲で、尾瀬に咲く水芭蕉の花が歌われています。私はこの歌を聞く度に〈水芭蕉の花とはどんな花なのだろう。一度は見てみたいものだ〉と思っていました。

 ところが私は小学校の頃、体力がありませんでした。そのため、学校でキャンプや登山などの行事があっても、参加することができないほどでした。高校時代の部活動は、生物部を選びました。すると生物部の先生から提案がありました。

 「夏休みに尾瀬沼に行ってはどうかな。珍しい高山植物を見ることができるよ」

 遂に夢見た水芭蕉に逢える。私はそれはそれは嬉しかったものです。興奮しすぎたせいでしょうか。尾瀬への出発の朝、私は熱を出してしまい、泣く泣くあきらめなければなりませんでした。

 10年ほど前、縁あって函館郊外の大沼に移住することになりました。

 1年目の春のことでした。「紀子さん。水芭蕉が咲き始めたわよ」大沼の友人、登美子さんからの電話でした。

 「水芭蕉!」「そうよ、大沼は水芭蕉の群生地なのよ」

 これまでどんなに願っても見ることができなかった水芭蕉を見ることができるなんて...。私は喜んで、早速見に行きました。

 雪解け水が溜まった湿地に水芭蕉は咲いていました。芽吹いた葉に寄り添う大きな白い花です。湿地の中にぽつぽつと静かに、木々に隠れるように花をつけていたのです。

〈我が家のすぐ近くに水芭蕉が咲いているなんて〉

〈本州の高い山に咲く花を、北国では平地で見ることができるんだわ〉

 50年間会いたかった花にとうとう出会うことができたのです。私は本物の水芭蕉に出会って、童謡「夏の思い出」が、今までよりもっと好きになりました。

夏の思い出

小川 靖忠 神父

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 モンテッソーリ教育の専門家であられた、今は亡き相良敦子先生の集中講義を受けたことがあります。わたしが司祭になる前の話です。

 その頃、あることが話題になっていました。子どもの手が不器用になってきたというのです。ある幼稚園児が自分で顔が洗えないのです。両手で水をすくうこともできないし、すくえたとしても、顔まで水をもっていくことができないという不器用さ。驚いた先生が「おうちで、どうやって顔を洗っているの」と聞くと、こう答えたそうです。「あのね、ママがね、タオルをぬらしてね、電子レンジに入れてね、チーンと鳴ったらね、タオルが温かくなってね、それでママがふいてくれるの」

 相良先生は話を次のようにまとめられました。「子どもは、ママわたしが『一人でできる』ように手伝ってねと叫んでいるのです。

 そして、子どもが大人に求めている手伝いとは、自分一人でできるようになることへの配慮なのです」と。

 確かに子どもの能力は、大人と比べると未発達です。でも、秘められた力を信じて、準備してあげることが、子どもの人格を高め、たくましい発達に繋がっていきます。

 ある年、高校生の夏の集いがありました。その企画、準備、当日の運営進行まですべてを、高校生自身に一任したのです。見事な出来栄えでした。何よりも、彼ら自身が生き生きとしていたこと。同年代だからこそ言い合える言葉と現場の雰囲気。周波数がぴったりと合うんでしょうね。何とも言えないハーモニーが漂っていました。いわゆる「忖度」し合えるんですね。

 「一人でできるように」配慮してあげることの尊さがよくわかった一夏の体験でした。それは、彼らを「信じきること」です。


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