夏の思い出

村田 佳代子

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  江間章子作詞「夏の思い出」の歌詞のように「夏が来れば思い出す遥かな尾瀬・・」と、夏の思い出を問われるなら、旅先での経験になります。

 子供にとって50日もの夏休みは特別な時間で、今振り返ると、夏休みごとに階段を一段ずつ上り、確実に成長していったと実感します。

 私の子供時代とは、今から60年以上昔ですから、東京から京都まで「つばめ」という特急列車でも8時間かかり、九州の延岡へ親戚を訪ねたときは、26時間も汽車に乗っていました。現在は半日ドライブで往復出来る箱根も、当時は旅支度をしてロマンスカーで行く、特別な避暑地でした。

 面白いことに、近場の避暑は家族で滞在するので、専ら読書の虫になるか、手芸や絵を描く事に夢中で取り組んだものです。一方遠距離は、先方に迎える人があって行くので、大抵弟との二人旅でした。母に見送られ東京駅を出発すると、自然と背筋が伸びて注意深くなり、いきなりしっかり者になります。

 名古屋、広島では子供心に戦争の爪痕を深く刻みました。名古屋は当時百メートル道路の整備中で、広島は太田川の畔にバラックが連なり、原爆ドームの周りも瓦礫のままでした。そして、前年に完成したという世界平和記念聖堂に案内され、そのあまりの美しさに大感激し、弟を待たせてスケッチ、帰宅してから習い始めた油絵で描き直しました。五年生の夏休みの事です。

 それから27年が過ぎ、広島に単身赴任中の夫のもとで子供たちと1か月夏休みを過ごしました。その折、8月6日の慰霊祭に参列し、平和記念聖堂のミサに与かりました。

 1981年2月、ヨハネパウロ二世教皇様の広島での平和宣言を体験できた事は、大きな恵みとして家族の歴史に刻まれています。

夏の思い出

中井 俊已

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 自分が体験したわけではないのに、8月になると思い出すのは、1945年に長崎で起こった出来事と永井隆博士です。

 8月9日、長崎市浦上に原爆が投下されました。

 約7万4千人のいのちが奪われ、7万4千人以上が重軽傷を負いました。全焼した家は、1万1500戸以上です。

 愛する家族、家、財産を奪われた人たちの悲しみや憤りは、いかばかりだったのでしょう。

 その中の一人に、永井隆博士がいました。彼は1908年、島根県に生まれ長崎医大で学びました。長崎でカトリックの受洗をし、森山緑さんと結婚。いとし子たちに恵まれますが、放射線医療研究のため、致命的な白血病を宣告されていました。

 重ねてあの日、原爆被爆で瀕死の重傷を負い、妻の緑さんと家・財産を失ないます。

 しかし、その悲しみの中を、倒れるまで人命救助と医学の発展に尽力したのです。

 病床に伏しても、永井博士は天命に全力で応えました。

 「働ける限り働く。腕と指はまだ動く。書くことはできる。書くことしかできない」と、『長崎の鐘』『ロザリオの鎖』『この子を残して』など、死を目前としながら短期間に驚異的な量と高い質の著作を成し遂げたのです。

 

 「如己堂」という小さな家が残っています。「己の如く人を愛する」という思いから名づけられ、平和と愛のために、病身の命をけずりながら執筆し続けた二畳一間しかない家です。

 永井博士の思いや言葉や行いは、本になり歌になり映像になりました。それらがどれだけ多くの人びとの心をいやし、励ましてきたことでしょう。

 そして今なお、如己堂は永井博士の平和への願いや愛ある生き方を伝え、訪れた人たちの心を静かに熱くゆさぶっているのです。


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