ひたすら前に

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

 「こうして毎日、一歩一歩進めて行くしかありません・・」とは、去る秋の台風で未曾有の被害をこうむった千葉県の、電力復旧に携わっていた人の語った、沈痛な言葉でした。

 私は思わず、頭が下がりました。現代、それも今、現在の日本では、圧倒的な文明力と言いますか、科学の力でカバーされていて、たとえ電力が災害で分断されはしても、大抵の場合は間もなく復旧できるというのが、私達国民の大半の感覚だったと思います。

 ところが、今回、この電力復旧には何十日もかかった訳で、図らずも一番の当事者である電力会社は勿論、行政当局、その延長としての私達国民までもが、持っている認識が非常に甘かったということが、露呈されたのでした。と言うのも、張り巡らされた電線を修理するためには、それぞれの現場へ行かなければなりませんが、無数の杉の倒木が道をふさいで、人も重機も入って行けなかったのです。しかも、杉の木がこんなに倒れた原因が、幹の中の空洞化という病気だったというのですから、私達には本当に打つ手はあるのかという思いにさせられたのです。

 こんな風に、電力が失われれば、私達は殆どなすすべを知らないと言えます。

 しかし、普段気付かないでいることも多いかもしれませんが、もし神様が私達に持っていて下さる愛とか、無条件の好意が今、この瞬間から絶たれたなら、私達に希望とか喜びはあるでしょうか。というのも、私の支えとなっているもの、そして将来の希望となっているものは、やはり神様だからです。慈しみ深い神様なのです。

 この神様こそ、私達がその愛にいつも喜びと感謝をもって応えたとは言えないのに、神様の方からは私達への好意を持ち続けておられる方なのです。

ひたすら前に

遠山 満 神父

今日の心の糧イメージ

 聖書には書かれていませんが、『ペトロ行伝』という書物に記されている事によりますと、ペトロが迫害の激化したローマから避難する為、アッピア街道を進んでいた時、復活したイエス様が道の反対側から歩んで来られました。その時、ペトロが、「主よ、何処に行かれるのですか」と尋ねると、イエス様は「もう一度十字架にかけられる為、ローマへ行く」と答えられました。この言葉を聴き、我に返ると共に自らの使命を思い出したペトロは、ローマに引き返し、そこで殉教したと伝えられています。

 ペトロが、イエス様の捕縛前、どのようにイエス様を否んだかは、福音書の中に詳しく記されています。

 ペトロは、「あなたの為なら命を捨てます」と言いました。(ヨハネ13.37)それに対してイエス様は、「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私の事を知らないと言うだろう」と預言され、(同13・38)その通りになりました。この時ペトロは、イエス様の言葉を思い出し、「激しく泣いた」のです。(ルカ22・62)

 その際、イエス様がペトロに向けられた目を、現代教会は「憐れみの目」として黙想します。ペトロは、この時のイエス様の憐れみの眼差しを忘れる事が出来なかったに違いありません。

 私達は、ペトロと同じように、心身共に疲れ果てている時、もうこれ以上、自らの十字架を担って前進できないという思いに駆られる事があります。そのような時、イエス様がペトロに向けられた憐れみの眼差しを思い出したいと思います。私への愛の為に、これほどまでに苦しんで下さったイエス様の事を思い出し、苦しみが臨む時も、愛を持って更に一歩前進できたらと思います。


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