ひたすら前に

服部 剛

今日の心の糧イメージ

 それは私がカトリック施設の老人ホームで働いていた頃の、ある場面でした。昼食を終えた認知症状のあるシスターの車椅子を押しながら、私が休養室の扉を開けたとき、普段は話さなくなっていたシスターが思い出したように、「ものごとは、すぐにはすーっと、いかないの」と、言いました。突然の言葉に私はただ、「そうなんですね」と応えることしかできませんでしたが、15年以上前に聞いたその声が、なぜか今も記憶に残っています。

 

 これまで歩んできた道をふり返ると、仕事も夢も人間関係も、確かに最初から思い通りにはいきませんでした。ですが、あの日のシスターの言葉を思い巡らせると、当時、不器用に働いていた若い私に語りかけたシスターの真意は逆で、「すぐにはすーっといかなくても、あきらめないで」と言いたかったのではないか...と気づくのです。

 例えば結婚生活においても、夫婦がお互いの性格をよく理解して絆が育まれるまでには、晴れの日も雨の日も共に歩み続ける年月が必要です。それは他のことでも言えるでしょう。最初は上手くいかなくとも、七転び八起きの道を歩み続けるうちに経験が生きてきて、段々と周囲の風景も見えてきて、気がつくと長い道を歩いていた――と知るのではないでしょうか。

 そのシスターが天に召されてから十数年になります。今では「すぐにはすーっと、いかないの」と言いながら、なぜかニコッとしたシスターの可愛らしい笑顔が、瞼の裏に浮かびます。

 人は誰もが、ときに転びながらも夢や目標を失わず、歩み続けること自体が大切です。無心で歩いているとふいに追い風の吹くことがあり、その時こそ、冷静に目標を見据え、ひたすら前へ進みたいものです。

ひたすら前に

三宮 麻由子

今日の心の糧イメージ

 2018年、私は「浜松国際ピアノコンクール」の本選を聞きに行き、あることに気付きました。

 入賞しなかった出場者たちが優勝者と何ら変わらない雄雄しさで次のコンサートをこなし、学びを続けているのです。一方優勝者も、まるで何事もなかったかのようにツアーに臨んでいるのです。

 もちろん、優勝の喜びや、入賞できなかった残念さはあるでしょう。特に優勝者は、その賞品として多くの大チャンスを提供されるので、それに挑む心はいままでとは大きく違っているはずです。

 しかし、演奏するという行動において、彼らの言動はそれまでとまったく変わらないかのように見えるのです。彼らをここまで冷静に保っているのは、何なのでしょう。

 予選から本選へと聞き進むにつれ、私は出場者たちの心がどんどん静かになっていくのを感じました。アピールと競争による極限状態におかれることで、単に技術を磨くだけでなく、心を揺らさずひたすら前に進む態度を、彼らは身につけたのではないでしょうか。審査員方も、出場者は勝ち抜くほどに見る見る上達するとコメントしておられます。コンクールの本当の収穫は、順位よりも、こうした深いメンタル面での熟成なのでしょう。

 私もピアノを演奏しますが、気持ちを揺らさず前に進み続けることは大変難しいと感じます。実際の演奏では、できない箇所を徹底的に分析して克服しながら、できる箇所にはしっかり自信を持って蓄積を重ね、音楽全体を深めていくという作業になります。これには、心の鍛錬が大変重要になるのです。

 スポーツとも通じますが、この鍛錬ができると演奏はどんどん花開いていきます。私はこの感覚を人生にも応用し、着実に進み続けていこう、と考えたのでした。


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