この春から、神学校という司祭の養成所で働くようになりました。8年前にも働いていましたので、2度目の勤務となります。
前回の勤務の時、朝の「ミサ」という礼拝式で大きな声で祈っていたら、司祭の卵である神学生から「神父さん、隣で大きな声で祈られたら、せっかくのミサで、集中して祈れなくなるじゃあないですか」と笑いながら言われたことがあります。
大きな声は人付き合いには大切と思いながらも、ある人には耳障りな音なのかもと少々肩身が狭く思っていました。
ところが、ある教会に頼まれてミサに行ったとき、終わると一人の熟年の男性が近寄ってきて「生の声はいいですなあ」と、耳元の補聴器を示しながら話しかけられたことがあります。それ以来、補聴器を持った人のために、なるべくマイクなしで祈るようにしています。
前の赴任地高松では、ある幼稚園のお母さんから「先日はありがとうございました」と声をかけられたのです。「実は、先日神父様が司式された葬儀は、彼が主人の同級生だったので参列させていただきました。神父さんの声は透き通って良く響くので、亡くなった人のためにしっかり祈れました」と感謝されました。
その少し後にも、東京で研修会があり、手伝いのために参加した時、何人もの方から「神父さんの声、良く通りますね。きれいな声ですよ。だから内容についていろいろ考えさせられました」とまたもお褒めのことばに預かったのです。
その後も、同じようなことばをかけられ、この声で癒される人がいるのなら有り難いと思うようになったのです。
そして、神さまから頂いたこの声に感謝しながら、私に与えられた役割を果たしていきたいと思っています。
私の五島列島の実家の墓には、私の書き文字で「まわりをあたためていた家族、命ゆたかに生きて、今ここに肩寄せ合って眠る」と彫られている。
これは母の願いであった。
「せっかく、あんたが作家になったとじゃけん、あんたが考えて何か書いて残してくれんね」といい、聖書を開いたような形の石の彫刻に彫ってもらったのである。
私の父母は、本当にまわりをあたためて、人の世話にあけくれた一生であった。
私のきょうだいは5人。誰も世間でいうところの立身出世はしなかったけれど、それぞれの場所でまわりをあたためて懸命に生きたのではないかと思う。
私は72歳。今のわたしの役割を考えた時、ささやかでもまわりをあたためる人間でありたいと思って暮らしている。
まず家庭。夫や息子、4匹の猫を大切にしたいし、隣近所の人とも仲良く暮らしたい。
朝、家の前を掃除していると、登校中の子どもたちや、近くの大病院に勤める人たち、出勤中の人たちが通る。
顔見知りの人たちとは言葉をかわし、そうでない人たちに対してはその人たちの後姿に祈る。
心の中で祈ることは、場所も道具も要らないし、とてもたやすく出来ることである。
幼少の頃から祈るということを教えられて育った私たちは何と幸福だろうと思う。
自分のため、他人のため、祈る心があれば自然に心豊かになり、優しい顔と優しいしぐさになって、まわりをあたためることが出来ると、年を重ねるに従って判ってきた。
私の今の役割は、この場所で、にこにことして、ささやかな幸福を出会う人たちと分かち合いたいということである。