わたしの今の役割

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ

 教会や老人ホームなどで、朝のミサをすることからわたしの一日が始まる。老人ホームはもちろん、教会であっても参加者はご高齢の方が多い。朝食をとって、次は幼稚園で子どもたちに「神さまのおはなし」だ。絵本や紙芝居を読み聞かせたり、趣味で撮っている花や鳥の写真を見せて、神さまの恵みの素晴らしさを話したりする。幼稚園で子どもたちと給食を食べ、午後からは車で山の中の刑務所に行く。受刑者の皆さんに、刑務所での生活の心の糧になるような話をするためだ。わたしの毎日を、おおざっぱに要約するならこんな感じになる。

 話の素材や切り口はさまざまだが、どこでも伝えたいことはただ一つ。それは、わたしたちは誰もが、神さまから愛されて生まれてきたかけがえのない命。いなくてもいい人など一人もいない、ということだ。子どもも大人も、男も女も、罪を犯して反省している人も、自分は正しいと思い込んで威張っている人も、どんな人でも、日々の生活の中で、ふと自分の存在に不安を感じることがあるだろう。「あなたはかけがえのない命。たとえ失敗ばかりでも、あなたが精いっぱい生きているというだけで、神さまはうれしくて仕方がない」というメッセージを、すべての人が待ち望んでいる。そう信じて、わたしはどこでも同じことを伝え続けている。

 その使命を果たすために何より大切なのは、まず自分自身が、自分の命の尊さを信じていること。与えられた命を神さまに感謝し、喜んで生きていることだろう。よい知らせが真実であるかどうかは、その人からあふれ出す喜びによって証しされる。与えられた使命を果たすために、どんなときでも自分の命の尊さを見失わないようにしたい。

わたしの今の役割

堀 妙子

今日の心の糧イメージ

 わたしはバスに乗るときのマナーがあまり良くなかったので、遅すぎる改心だが、バスに乗るときには「おはようございます。よろしくお願いします」と挨拶し、降りるときには「ありがとうございました」と言うことにしている。

 今頃になって気づいたことだが、バスに乗る人には、電車の駅の複雑な構内が苦手だったり、階段の上り下りが大変だという、体の弱い方が多く利用するような気がする。お年を召した方も席に座ることができれば、電車よりもバスのほうが楽だと思う。そんな乗客を乗せている運転手さんの気苦労は並大抵のものではないだろう。停留所での時間調整、発車しようとすると急に赤信号になって、車内の乗客がイライラしたりすれば、運転手さんのせいではないのに「早く発車させろ」というような無言の圧力がかかる。

 バスでの挨拶を始めてからもう5~6年になる。

 ある日、とても素敵なことが起こった。バスが停留所に止まったとき、中学生ぐらいの少女が元気よく「ありがとうございました!」と言って降りて行ったのだ。バスの運転手さんは弾んだ声で「ありがとう」と答えていた。また、数日過ぎて、バスに乗り、降りるときに、お年を召した女性が「ありがとう」と言って降りた。バスの運転手さんは驚いたように「お気をつけて」と声をかけたのだ。

 運転手さんに感謝の言葉をかければ、運転手さんも嬉しそうだ。それに一気に車内の雰囲気がなごむ。

 わたしの今の役割は、バスばかりではなく電車の場合でも、乗ったらすぐにロザリオの祈りを始める。運命共同体だからだ。そして偶然乗り合わせた人びとの今、そしてこれからの幸せを願うことにしている。


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