年長者と共に

崔 友本枝

今日の心の糧イメージ

 ある夏の夕暮れ、夫と和食屋に行った。慣れない手つきでお茶を運ぶ若いウエイトレスがいた。

 「お水を先に持って来ていただけますか。とても喉が渇いているの」と彼女の目を見て笑顔で言うと、はっとした顔になり、友人を見るようなまなざしに変わって「はい」と言った。お水を持って来てくれたときに「ありがとう」と笑うと、嬉しそうにそっと笑った。

 私が彼女を見るたびに「私、これでいいんだ」と、励ましを受けて自分を肯定したような幸せそうな顔になる。料理を持ってきたので「ありがとう」と言うとまた嬉しそうにした。

 食事を終えた私たちのテーブルを片付けに来た時、「ごちそうさま」と言って彼女を見つめると、枯れそうになっていた花が、水をもらって頭を上げたようになった。何かが、内側からこの若い女性の養分になったのが私にもわかった。

 目を見て笑いながら声をかけただけだ。だが、もう長い間、人としてそんな風に接してもらえなかったのだろうか。あるいは、アルバイトを始めたばかりで一つ一つのふるまいに自信がなかっただけなのか。内面の動きが、まるで手に取るように滲み出ていたこの女性が印象に強く残っている。

 かつて私にも、自信がなくて人の目を見ることが出来ない時期があった。それでも大学生になるとドキドキしながらアルバイトを懸命にした。その気持ちを今も鮮明に覚えている。

 幸い私はたくさんの優しい年長者に受け入れられ、励まされ、助けてもらった。もう、人の目を見ることが怖くはない。

 私はいま50代。若い人たちにとっては十分に年長者だろう。彼らを温かい目で見つめ、力になる言葉がもし唇に上るなら、そうしたい。

年長者と共に

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ

 わたしはいま、山口県の教会で、80代の神父たちと一緒に生活している。毎朝のミサは当番制で、当番でない神父は、当番の神父の両脇に立ってミサをする。80代の神父が当番のとき、脇に立って一緒にミサをしながら感じるのはスピードの違いだ。80代の神父たちは、祭壇に道具を並べるにしても、本を開くにしても、一つひとつの動作をとてもゆっくりする。説教をするにしても、一言ひとことをゆっくり噛みしめるように話す。隣に立っていてイライラすることもあるくらいだが、80代の神父たちのミサは、信徒たちのあいだでとても評判がいい。あれをやっていたと思ったら、もうこれというように、どんどん先に進んでゆく若い神父のミサより、神様の愛をゆっくり味わうことができるというのだ。

 80代の神父たちは、ミサだけでなく、食事にしても、どこかに出かけるにしても、すべてがゆっくりだ。食事のときは、出されたものをゆっくりと食べ、外出のときは、道で会う人たちと立ち止まって話したり、花壇の花を眺めたりしながらゆっくり歩いてゆく。体が弱っていて早く動けないというのが大きな理由であるのは間違いないが、それ以上に、一つひとつのことをゆっくり味わいながら生活しているように見える。残り少なくなった人生の時間をゆっくり味わい、神様の愛をかみしめながら生活している。そんな風に見えるのだ。それに比べてわたしは、せっかくの時間を味わうこともなく、仕事から仕事へと駆け回るような毎日を過ごしている。

 世間一般では、わたしの方が時間を有効に活用しているように見えるかもしれないが、ゆっくり味わうことで時間を最も有効に活用しているのは、実は80代の神父たちの方なのかもしれない。


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