年長者と共に

黒岩 英臣

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 私達の年代の人には、年長者を大切にするという精神は、何となく身についていると思います。

 もっとも私は、後に洗礼を受けた時からは、父母、年長者を大切にする事を、より意識的に受けとめなければなりませんでした。

 旧約聖書の中のお話しをしますと、昔、エジプトで迫害されたイスラエルの民は、モーゼに率いられて大脱走を試み、シナイ半島の荒れ野に逃れます。その時、ホレブの山へ神に呼ばれたモーゼは、雷鳴轟く中で、主なる神がイスラエルをエジプトから導き出した事、これ以後ご自分の民とする事、またイスラエルの民が主を自分らの神とするという契約の証に、十戒、10のいましめを授かりました。

 私達にとって、この十戒は、単にすっかりひからびてしまった大昔の話と言うに留まりません。それどころか、今も瑞々しい内容を持ち、私達に喜びをもたらしてくれる神の言葉なのです。

 新約聖書を開いて、この事を読み返してみたいと思います。

 マタイ福音書の19章です。金持ちの青年がイエスに質問します。「先生、永遠の命を得るには、どんなことをすればよいのでしょうか」。イエスは答えられます。「命を得たいのなら掟を守りなさい」青年の「どの掟ですか」に対してイエスは、「殺すな、姦淫するな盗むな、偽証するな、父母を敬え云々」とお答えになりました。(参:19・16~19)

 これはつまり、十戒です。

 また、律法の専門家がイエスを試そうとして「どの掟が一番重要ですか」と尋ねた時、イエスは、愛の掟の完成といわれる二つの掟について次のように説明されました。「心を尽くし、魂を尽くしてあなたの主を愛しなさい」、また第二も同じく重要な、「隣人を自分のように愛しなさい」と。(参:同22・34~40)

年長者と共に

遠山 満 神父

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 年長者の方々と接する時、質問される事の一つは、人生の意味です。「神父様、私は何故生きているのでしょうか」と問われます。子供さんが独立し、お1人で自宅や施設で生活される年長者の方々から、時々、そのような質問をされます。答えに窮していると、「早くお迎えが来るように祈っております」と畳みかけられたりします。確かに、子育てという自分の使命を果たし、耳や目が不自由になり、身体の自由も利かなくなる人生の晩年に、どんな生きる意味があるのだろうかと、誰もが問いかけたくなります。

 この問いかけに、答えるが如く、残されている美しい詩があります。上智大学学長も務められたことのある、ヘルマン・ホイヴェルス師の著書「人生の秋に」の中にあり、南ドイツの友人から贈られたと言われている「最上のわざ」という詩です。その詩の最後の方には、次のような件があります。「神は最後に一番良い仕事を残して下さる。それは祈りだ...。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛する全ての人の上に、神の恵みを求める為に...」。

 何と美しい詩でしょうか。私は、多くの年長の方々に、この詩をお伝えできたらと思います。若い頃のように働く事ができなくなっているかもしれません。この世にあってもう自分の役割は無くなっているのではないかと思える時があるかもしれません。けれども、私達には人生の最後の瞬間まで、使命があります。それは、他者の幸せの為に祈ることです。

 人生の晩年を、どのように過ごすべきか、という課題は、誰もが抱えている課題です。高齢化が進む日本社会の中で、人生の晩年をどのように過ごすべきかと悩んでいらっしゃる方々と共に歩んで行くことができたらと思う昨今です。


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