年長者と共に

新井 紀子

今日の心の糧イメージ

 私たち夫婦の花見は、函館の五稜郭に始まり、北斗市の八郎沼、最後は南富良野の金山湖畔の桜で終わりました。東京の桜の開花から1か月遅い分、北国の桜は厳しい冬を乗り越えられた喜びにあふれていました。積極的に花見をしようと心がけるようになったのはある方から花を愛でる素晴らしさを教わったからです。

 結婚し、奈良に住んでいた頃でした。私が24歳の秋です。蘭子おばさんが母と遊びに来ました。

 「奈良と京都の紅葉を見に行きましょう」我が家に泊まり、最初の日は蘭子おばさんの案内で奈良を見て回りました。

 「奈良にはね、たくさんの和歌が詠まれているのよ。万葉集の舞台も奈良が多いの。日本人は季節を愛でる民族なのよ」

 2日目は京都に行きました。蘭子おばさんは当時としても珍しい着物姿での観光です。

 「夫を50歳で亡くして、夫と季節を楽しむことがなかったことに気が付いたの。もっと一緒に花見に出かけておけばよかった」そう言ってそっと涙をぬぐうのです。

 私たちが横浜に暮らすようになると、蘭子おばさんは、一緒に花見をしましょうと我が家を訪ねてきます。

 「桜はね満開の時も良いけれど、風で散る桜も風情があって見飽きないわね。散った花弁が川に流れていくことを花筏というのよ」

 私たち夫婦は今、北海道に住んでいます。雪がとけると、真っ先に咲きだす水芭蕉を探しに出かけます。花見に出かけたり、紅葉狩りを楽しんだりするたびに、蘭子おばさんが教えてくれたこんな言葉を思い出します。

 「いいこと、どうせ生まれてきたんだから、人生は楽しまないとね。人生を楽しむには、季節を感じること。季節を感じるには、花を愛でることよ」

年長者と共に

小川 靖忠 神父

今日の心の糧イメージ

 人の世は、どの国、地域、民族を問わず、縦割り社会を構成しています。その原型になるのが「家族」ではないでしょうか。

 どの家にも、「家風」と言われるまではないにしても、その家族ならではの「雰囲気」なるものはあります。そして、それは代々にわたって引き継がれていくのです。わざわざ意図しなくても、自ずと後世につながっていくものではないんでしょうか。

 そのつなぎ手として存在するのが、その時の年長者たちであります。時の流れの中で、年長者たちも世代交代していきます。何も家族だけではなく、会社でも、地域社会の中でも同じではないでしょうか。だからこそ、その時代の中で、尊敬に値する人たちなのでしょう。わが国にはそうした環境が、雰囲気があります。

 「敬老の日」はまさしく、人生の先輩を意識して思い、感謝し、敬意を払う日です。これまでの人生で、どれだけの年長者に会い、励みと刺激を受け、前に進んで来られたことでしょう。

 小学校時代の自分を思い起こしますと、忘れてはいけない方がいらっしゃいます。当時の長崎教区の山口愛次郎司教様です。わたしの父親の先輩でした。「自分の息子が神学校に行きたいといっていますがどんなものでしょうか」と司教様に聞きに行ったようです。

 司教様は一言、「子どもが言うんなら行かせろ」だったそうです。父親は内心反対だったのではないかと思いますが、司教様のことばに反論できなかったのでしょう。その年、入学できたのです。年長者の重みを感じます。

 その時あの時の一言、一押しが、その言動以上のエネルギーとなって相手の人に及びます。それが「年長者」ならではの財産であり、後輩たちへの鑑となっています。


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