年長者と共に

森田 直樹 神父

今日の心の糧イメージ

 私事ですが、神父になってから、年長者の方々と接することが数多くありました。自分自身が若かったということもありますが、教会の高齢化が進んでいることも、理由の一つかもしれません。

 今まで、年長者の方々から、多くのことを学ばせていただきました。意思決定の方法や、意見集約の方法、さりげない愛のわざや、ささやかな思いやりなど数々のことを教わりました。

 ふと、イエスさまと年長者の方々とは、どのような関わりを持っておられたのだろう、と思いました。

 聖書の中に次のようなお話があります。罪を犯した女性に対して、モーセの律法に従って石を投げるように、律法学者やファリサイ派の人々がイエスに迫る話です。(ヨハネ8・1~11)

 罪を犯したとしても、人間一人一人を本当に大切にしておられたイエスはこう告げます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(同8・7)

 「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が」残ります。(8・9)

 すると、イエスは罪を犯した女性に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と告げます。(8・11)

 このお話によると、年長者の方々は、自分の罪深さを他の誰よりも自覚し、自らの無言の行動の内に、他の人々を導いていきます。言い換えると、イエスの思いを自らの経験から敏感に感じ取り、ゆるすように、と人々を促したのだと思います。

 年長者と共に歩むとは、彼らの経験からくる知識や感受性、やさしさを受け入れながら歩んでいくことなのかもしれません。高齢化が進む日本の社会で、年長者の一人一人が本当に大切にされるようにと願っています。

年長者と共に

服部 剛

今日の心の糧イメージ

 私の祖母が帰天してから今年で9年になります。人それぞれの物語があるように、この9年の間には、私自身の日々に色々な変化がありました。様々な季節を過ごしながら、月に一度、実家に帰っては写真立ての中の祖母と目を合わせ、祈ります。

 私の祖父は、兵役から帰った後に病に倒れ、まだ小学生だった子供たちを遺して世を去りました。その後、貧しい暮らしの中、女手一つで息子と娘を育てるために若き母親だった祖母は、世間の裏も表も知りながら心を鬼にして生きざるを得ませんでした。

 そんな気丈な祖母と一つ屋根の下で暮らした頃は、家族で激しくぶつかることもありました。今思えば、ずいぶんケンカもすれば笑い合ったりもしましたが、その心の奥には、若き日のうかがい知れぬ苦労と伴侶を亡くした寂しさがあったのだと思います。

 晩年、近所にある修道院のシスターと親しくなり、カトリック信仰と出逢った祖母は、毎週、教会の集まりで友と語らうひと時を楽しみにしていました。そして、教会に通ううち徐々に祖母の性格が丸くなってゆくのを、私は感じました。最晩年は、嫁として長年にわたり尽くしてきた私の母に、なかなか伝えられなかった〈ありがとう・・・〉という言葉にならない感謝の思いを病床から伝えて、89年の生涯を閉じました。

 愚息ならぬ愚孫?の私は今も、日々の自分の至らなさを、神様にそっと打ち明けるように〈婆ちゃん、ゴメン・・・〉と心で呟きますが、実家にいた頃、祖母の畳の部屋で多くの話をしたひと時が懐かしく思い出されます。

 そして、祖母が帰天してから「信仰」という人生の道標を残してくれたことに気づいた私は、今日も〈ありがとう・・・〉と語りかけています。


前の2件 2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12