子どもの祈り

湯川 千恵子

今日の心の糧イメージ

 最近、夕方の散歩に出かける時、ちょっと子どもじみた祈りをしています。

 まず十字を切って「天のお父様、イエス様、聖霊よ、今日もお散歩出来ることを感謝します」と言います。腰痛で自由に歩けなかった一時期を想うと、普通に歩けることが有り難いのです。そして「マリア様、ヨゼフ様、守護の天使と聖人、全ての天使と聖人、そして天国のあなた、主のみ前でのあなた方の絶えざる賛美と感謝の祈りに添えて私がこれから唱えるロザリオを主にお捧げいただきたいのです。よろしくお願いします。」と言って、ロザリオを唱え始めます。

 そうすると、昔、夫とヨーロッパの美術館で見た、主の御前で祈る無数の天使や聖人達の壮麗な情景が心に拡がって、私もその片隅で祈らせて頂く気持ちになれて嬉しいのです。

 幾つになっても天の御父の未熟な子どもですから、無邪気に甘えたいのです。

 家を出て通りを渡ると自然公園です。池の周りを巡り、里山の小径を登りながらロザリオを唱えます。マリア様、ヨゼフ様、イエス様の揺るぎない信仰と愛、十字架の犠牲のお蔭で今、私たちが救われている事を想い、感謝と賛美の念に満たされます。大きな切り株の処に来ると、その日のロザリオ1環が終ります。

 そこで「マリア様、拙いロザリオですが、あなたの清いみ手を通して主にお捧げ下さい。」とお願いしてから、家族や友人たちのために、また亡くなった夫や私の両親や先祖やお世話になった方々のために、一人ひとり名前を挙げて神の祝福とお導きを願いながら、広いグラウンドを1周すると約1時間。

 胸の思いの全てを主に委ね、軽くなった心で空を仰いで一休み。きれいな流れ雲が多い日は天使や羊に見立てて天国を夢見たりしています。

子どもの祈り

三宮 麻由子

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 私の母方の祖父は、正月に親戚が集まると、まず神棚にお神酒と榊を供え、パンパンと柏手を打って拝んでから、一同に「はい、みんなも拝みなさい」と促していました。

 私たち子どもは、言われるままに柏手を打ち、手を合わせました。

 毎年色んなことをお願いしましたが、大学受験のとき、上智大学を受けることになった私は、神棚の前で、はたと困ってしまいました。試験に受かりますようにとお願いしたいのですが、行き先はカトリックの学校です。そこに受かるようにと、神道の神様にお願いしても良いものなのか。思わずこの疑問を口にしたところ、親戚一同、即答しました。

 「いいのよ、試験に受かることは、どの学校でも同じなんだから」

 なるほどね。ということで、合格祈願をした私は、念願のソフィアンになったのでした。

 子どものころ、祈りは願いとほぼイコールだった気がします。「○○しますように」、「○○となりますように」と祈ると、簡単だし、自分の気持ちが整理できるからではないでしょうか。

 ところが大人になると、祈りの中に願いが多く入る点は以前と変わらないとしても、願いが一つの方向だけに決まらなくなったり、願いにとどまらず、「どうしたらいいの?」、「これは、どうなっているの?」、「真実はどこに?」といった問いかけも出てくるものです。

 子どもの祈りと、大人の祈りの違いは、こんなときに神の答えを待つ体制で祈れるかどうかかもしれません。待てるときばかりではないけれど、ともかく神の返事を聞く体制になるということです。

 これができたとき、私たちの祈りは、子どもの祈りから、成熟した「神の子の祈り」へと、進化していくのだろうと、私には思えています。


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