詩人で童話作家のエリナー・ファージョンによる「ちいさなもののいのり」は、こんな言葉で始まる。
「かみさま、どうぞちいさなものたちをおまもりください。/まだはねのはえていないものたちを。/おおきくなって つばさをひろげ/おおぞらをおもいのままにとべるまで。」
子どもたちはまだ飛べない。けれども、いつか大空を自由に飛べることを信じ、希望を持っている。私たち大人は、子どもと一緒に子どもの夢と希望も守り育てるのが務めなのだ。それはどんなに嬉しい仕事だろうか。子どもたちが幸福になる姿が見られるのだから。
祈りはこう結ばれている。「このちいさないのりをどうぞおこころにとめてください。/あなたのおまもりをねがう/おおきなものたちのいのりとおなじように」。そう、子どもたちが祈るのは、大人たちが祈る姿を見るからなのだ。
まず私たちが祈りたいと思う。子どもたちが幸福であるように、その手助けをすることが、私たちの幸福でもあるように。そう祈る時、合わせる掌はよき願いを包み、灯のように明るむことだろう。
最近、私の読書に変化が出ています。購入する本は子供向けの本ばかり。その理由は、子供向けの本は実に単純で大きな喜びを私に与えてくれるからです。
人間には本能があり、その一つに、デジデリウムとも言われている概念があります。その意味は、「ホモサピエンスには、深層心理の中に神を知りたい欲がある」という学説です。
近所の幼稚園児の会話と、私の幼少時代の祈りの内容は、友達を呪ったり、天使のような優しい祈りもしています。
私たち家族は、戦犯の家族ということで、その村の人は母に野菜を売ってくれませんので、母は隣村まで野菜を買いに行ったそうです。当時の私の祈りは「神様、どうか美味しいものを沢山食べさせて下さい」でした。その祈りが私の子供時代の祈りでした。あの時の熱烈な祈りを想うと、今の私の祈りは、なんとも迫力がありません。子供の祈りのような正直さがなく、小さな知識と人生体験が神様に近づくことを邪魔しているようです。
子供向けの本を貪るように読む私、多分、神様が私に何かを悟らせようとされているようです。