学校には聖堂がありましたので、休憩時間には子どもたちと遊んだあと立ち寄って短い祈りを捧げることもありました。
さらに、子どもたちに家でも祈るといいよ、と教えてきました。
祈りは、家庭に幸せをもたらすからです。
いつか小学1年生のお母さんからいただいた手紙の一部です。「『学校で今月のモットーは"親孝行"だから、僕はパパとママのためにお祈りするよ』と言って毎朝、お祈りをしてくれています。遠い学校に通っているので、毎朝、子どもを見送りながら『今日も楽しい一日を過ごして無事に帰って来ますように』と親の私たちが願わない日はありませんが、子どもの方から私たちのためにお祈りをしてもらえるとは考えてもいませんでした。とても嬉しいことです」
マザー・テレサは語っています。
「愛は、どこから始まるのでしょうか。私たちの家庭からです。いつ始まるのでしょうか。ともに祈る時に始まります。ともに祈っている家庭は崩壊することがありません」
食事の前後には「いただきます」「ごちそうさま」と頭を垂れ、感謝の祈りをささげること。寝る前に親子が今日一日に感謝しながら皆の幸せを祈り合うこと。病気の方、災害などで苦しんでいる方方のためにも祈ること。
子どもとともに、愛のために心を神に向ける、そのわずかな時間が、家庭にも平安と幸いをもたらします。
大人になった私たちは、次第に「子どもの心」を忘れ、正直な本音の気持ちを自分のうちに抑えて、自他共に求められるような社会生活を送っているところがあると思います。どこかで、「本音は吐露してはいけない」という縛りや緊張の中で生きているとも言えます。
しかし、誰にでも、どこかに「子ども」のような本来の自分らしさがあります。高齢になると、「子どもに帰る」と言われるのは、もはや周りに、社会生活に適合しようというコントロールが効かなくなるからでしょう。
イエスは、どんな時も、御父に対して、本来の「子どもの心」でいることができたのではないでしょうか。と言っても、イエスが子どもっぽい人だったというわけではありません。自分の正直な心をよく見つめ、それを御父に差し出し、心を開くことができたのです。
聖書には、祈るイエスの姿が描かれていますが、それは、イエスにとって、「あるがまま」の自分自身でいられる御父との出会いの時だったのです。私たちも、イエスのように、「アッバ」である御父に「子どもの祈り」を捧げたいものです。