子どもの祈り

遠山 満 神父

今日の心の糧イメージ

 私は、子供の頃、余り祈りの生活をしてはいませんでした。それは、ただ単に、カトリックの家庭ではなかったと言う理由からだけではありません。もっと根本的な問題が、私の心の中に有りました。

 これに因んで、私が思い出す事が一つあります。それは、ある時期、2年ないし3年位続けて、親に預けていたお年玉が返ってこなかった事です。私自身何に使うかは考えていませんでした。ただ、預けていたお年玉が、いつの間にか家計の為に使われていた事に落胆しました。家計が苦しかったので致し方なかったのかもしれませんが、相談なしに使われていた事にショックを受けました。

 その時、「この世の中で、楽しみを後に回して大きな報いを後に期待する事は、無駄な事ではないか」、「神仏に祈っても何も役に立たないのではないか」と言うような、半ば諦めの境地に至ったのです。

 そのような私が、大学に入り、人間関係で苦しんでいた時、教会に通っていたある同級生が、「イエス様に祈ってみたら」と声をかけてくれました。

 その夜、私は跪いて祈りました。するとどうでしょう。心が軽くなり、この問題を神様が引き受けて下さった、というような思いが心の内に湧き起こってきました。

 子供たちは、小さくても、同じように人間関係で悩みます。そのような時、「一緒に祈ろう」と言ってくれる大人が側にいてくれたら、百人力です。加えて、この世で忍耐しながら生活すれば、必ず報いがあると言う事を、具体的に、小さな形ででも体験させてくれる大人が側にいてくれたら、それによって子供たちは、苦しみ多きこの世の命の後に、大きな幸せを準備して待って下さっている神様を知るようになるのではないでしょうか。

子どもへの祈り

崔 友本枝

今日の心の糧イメージ

 もう10数年も前、よく私のところに話をしにくる学生がいました。

 私は彼のことをとても賢く、よい資質をもった生徒だと思っていましたが、彼は自分のことが好きではなく、周りからも嫌われていると思い込んでいました。それは、若い時期には時々あることです。思春期の特徴で、自分に過度に集中し、狭い視野で判断してしまうのでしょう。欠点を実際以上に大きく感じてしまうようなのです。

 ある日、私が家で祈っていると、ふとこの生徒のことが強く思い浮かんだので、彼のために特に心を込めて祈りました。

 しばらくして、学校で会った時に話しかけてみました。「どう?元気だった?少し休んでたようだから、ちょっと祈ったのよ」と。すると彼はこう言いました。「先生が祈ってくれた日の夜、風呂の中で本気で手首を切ろうとしたんだ。死にたいと思ったから。でも何度やろうとしても、どうしてもできなかった。先生の祈り、聞かれたよ」と。

 私は心臓が凍りつくほど驚きました。祈ってよかった、と思ったのと同時に、人は他者の苦しみを自分の力ではキャッチできない、と思いました。私は彼と話していて、問題がそれほど深刻だとは感じとることが出来ませんでした。

 私の心に「祈るように」、と強く勧めた方は、人ではなく神ご自身だったのです。

 「先生の祈り聞かれたよ」という言葉はその後、何10回もたびたび思い出しました。

 私はいま、他校で講師をしています。講師は授業が終わると帰るので普段の生徒の姿がわかりません。でも、気になることがあったら祈るようにしています。神さまが生徒を守ってくださるように委ねています。


前の2件 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11