たしかに「子供の祈り」はシンプルでやさしく、短いので、どんなに眠くて疲れている時でも、「さあ晩の祈りをしなくては」と頑張らなくても自然体で祈れます。
子供用の聖歌もおなじです。
神さまをほめたたえて歌うことは祈ること。
わたしも掃除や台所仕事などをしながら、♪ありがとう、神さまありがとう、しんこうのおめぐみを♪と、歌っていたりします。
「天におられるわたしたちの父よ」は、「主の祈り」の冒頭の神さまへの呼びかけですけれど、子供たちはふだん、お父さんに「父よ」とは呼びかけませんね。
聖書に出てくるイエスさまの父なる神さまへの呼びかけは「アッバ」です。これは、当時使われていたアラム語で「お父ちゃん」とか「父ちゃん」などの幼児語のニュアンスだといわれています。
「お父ちゃん」って、100パーセント信頼のひびきがありますね。どんなに叱られても、「お父ちゃん、ごめんなさい。もうしません」と心からあやまるなら、両手をひろげてゆるしてくださる、抱きしめてくださる方。
そう、神さまは、わたし達をゆるしたくてしかたがないのです。どんなことがあっても愛して愛して愛しぬいてくださる。
子供の祈りをとなえるとき、わたし達はいっとき幼子にかえって神さまの広い胸に飛び込んでいけるのではないでしょうか。
こんな風に、自分も同じ目線に立って人を見る、というおごりのない気持ちも育ったようで、これも祈りの実りとして、私達には嬉しい収穫でした。
ところで、聖書の申命記という書物の中に、子供たちに関わる熱烈な記述がありますので、ご紹介しましょう。
それは、主である神が、イスラエルの民をエジプトから救い出し、ご自分の民とした時に与えられた、十戒の説明の後に述べられています。
「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6・4〜5)とした上で、「今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、"子供たちに繰り返し教え、家にいる時も道を歩く時も、寝ているときも起きているときも"これを語り聞かせなさい」と仰るのです。(6・6〜7)
私も、幼なかった息子を寝かしつけるとき、たびたび聖書の物語を話し聞かせていたものでしたが、まさかここまで徹底してはいませんでした。主よ、申し訳ございません。