子どもの祈り

堀 妙子

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 弟夫婦には3人の子供がいた。長男と長女は双子で、次男が生まれた。しばらくして4人目が生まれることになった。その頃、私はすでに東京の出版社で働いていた。子供たちの母親は新しく生まれる赤ん坊のために、3人の子供たちのおさがりを用意し、足りないものは買い足していた。ふとんは可愛い柄なのだが、兄弟が使ったため、色あせていた。その子の生まれる予定日は新年だった。私は4番目に生まれる赤ん坊のために、クリスマスにふとんをプレゼントすることにした。

 薄いクリーム色に教会の鐘が2つキルティングしてあるデザインで、新しく生まれる子のために布団一式を贈った。新年の1月13日に元気な男の子が誕生した。私は週末を待ちきれないかのように家に帰って、真路と名付けられた赤ん坊と対面した。目をパチっと開けて口もとは笑っているようだった。

 上の3人とは一緒に暮らした時期があるが、4番目の真路とは暮らしたことがない。たまに休みで帰った時に会うだけだった。

 私の母はその頃聖書研究会に入っていて、旧約聖書、新約聖書を二度通読していた。母は書道家なので、気に入ったみ言葉があれば色紙に書いていた。色紙を書くと、真路は、意味がわかっているかどうかはわからないけれど、次々と暗唱していた。まだ3歳になっていなかったと思う。

 ある日、私のアパートに電話がかかってきた。母は、真路が暗唱したみ言葉を聞かせたかったらしく、私の電話番号を押した。出たのは真路だった。「強く雄々しくあれ。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」(ヨシュア記1・9)と言って電話は切れた。

 私の旅路の糧となった祈りだった。

子どもの祈り

森田 直樹 神父

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 子どもの頃、運動会や遠足の前日になると、必ず「てるてる坊主」を作り、大声で一生懸命に歌いながら、次の日の良い天気を願ったことがありました。今から思うと、近所迷惑な子どもだったのですが、一生懸命大声で歌い続けていたのです。

 ところがどうやら、私は雨男のようで、なかなか「てるてる坊主」へのお願いは届きませんでした。いつしか「てるてる坊主」を作って歌うことはやめてしまいました。しかしながら、一生懸命心をこめてお願いしたことは記憶に残っています。

 子どもの祈りとは、真っ直ぐで、一生懸命なものだと私は思います。何の計算も思惑もなく、本当に素直なものです。たとえお願い事がかなわなくとも、子どもたちのお祈りの行為そのものが、とても大切なものだと私は思います。

 聖書はイエスと子どもたちの出会いを伝えています。(マルコ10・13〜15)

 イエスに触れていただくために、人びとが子どもたちを連れて来ます。ところが弟子たちはこの人々を叱ります。このような弟子たちの態度に対して、イエスは憤り、次のように語られます。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」

 さらにイエスは続けられます。「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

 神さまに向かう子どもの祈りの奥底に流れているような素直さ、一生懸命さ、ひたむきさが何よりも大切なのだよ、とイエスは諭されます。

 そこには、自分を正当化しようとする思いや、自分の経験や地位で自らを飾り立てる態度はありません。ただ神さまの前に、素直にひたむきであることが求められているのです。


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