薄いクリーム色に教会の鐘が2つキルティングしてあるデザインで、新しく生まれる子のために布団一式を贈った。新年の1月13日に元気な男の子が誕生した。私は週末を待ちきれないかのように家に帰って、真路と名付けられた赤ん坊と対面した。目をパチっと開けて口もとは笑っているようだった。
上の3人とは一緒に暮らした時期があるが、4番目の真路とは暮らしたことがない。たまに休みで帰った時に会うだけだった。
私の母はその頃聖書研究会に入っていて、旧約聖書、新約聖書を二度通読していた。母は書道家なので、気に入ったみ言葉があれば色紙に書いていた。色紙を書くと、真路は、意味がわかっているかどうかはわからないけれど、次々と暗唱していた。まだ3歳になっていなかったと思う。
ある日、私のアパートに電話がかかってきた。母は、真路が暗唱したみ言葉を聞かせたかったらしく、私の電話番号を押した。出たのは真路だった。「強く雄々しくあれ。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」(ヨシュア記1・9)と言って電話は切れた。
私の旅路の糧となった祈りだった。
子どもの祈りとは、真っ直ぐで、一生懸命なものだと私は思います。何の計算も思惑もなく、本当に素直なものです。たとえお願い事がかなわなくとも、子どもたちのお祈りの行為そのものが、とても大切なものだと私は思います。
聖書はイエスと子どもたちの出会いを伝えています。(マルコ10・13〜15)
イエスに触れていただくために、人びとが子どもたちを連れて来ます。ところが弟子たちはこの人々を叱ります。このような弟子たちの態度に対して、イエスは憤り、次のように語られます。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
さらにイエスは続けられます。「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
神さまに向かう子どもの祈りの奥底に流れているような素直さ、一生懸命さ、ひたむきさが何よりも大切なのだよ、とイエスは諭されます。
そこには、自分を正当化しようとする思いや、自分の経験や地位で自らを飾り立てる態度はありません。ただ神さまの前に、素直にひたむきであることが求められているのです。