2018年09月15日の心の糧


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自然とわたし

橋本 勲 神父

今日の心の糧イメージ 人混みの雑踏の中にこよなき安らぎを覚えるという人も時にはいるようですが、夏ともなれば、休みともなれば、人々は海へ山へと向かいます。

そこに理屈抜きの安らぎを味わうことが出来ることを知っているからだと思います。

憩い、安らぎ、充実、これらの疲れを癒す効果のあるものに、いろいろ理論的詮索は無用というものです。

理屈抜きに、ただただ浸っていればよいのだと思います。

しかしそれでもそこに理屈を入れて、なぜ人々は大自然の中で安らぎを覚えるのかといういわゆるヤボな問いを挟むとすれば、それはいのちの共振がそこで起こるのだと言えるのではないでしょうか。

「いのち」ということばを口にした瞬間、何か分かったような気になるから不思議です。

しかし今一度いのちを口にすると、何だか分からなくなります。いのちということばも抽象的なのです。

いのちの共振、それは自分の中のいのちと、自然の中のいのちが互いに響き合うということです。

人と人ではいわゆる教養が邪魔をして、なかなか響き合うことはむずかしいのですが、自然は懐が深いのです。

雑草とか雑木と言って、人間はすぐ自然の中にさえ、優劣を持ち込み、差別をしてしまいますが、大自然はそんなことはしません。

すべての木、すべての草が、それぞれ役割を果たし生かし合い、したがってこれらを育てるのに、人間の手入れなど一切必要ありません。

人間のいのちの営みも同様です。それぞれ違う臓器と器官がそれぞれ違いつつ繋がっています。

「違いつつ一つ」といういのちの基本構造、ここに共振による憩いが生じるのだと思います。

ただし、これも理屈に過ぎません。自然はただただそこに浸っていればいいのです。