目覚める

森田 直樹 神父

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聖書の中に、私の好きな話がいくつかありますが、そのうちの1つが、「エマオで現われる」というタイトルのお話です。(ルカ24・13~35)

イエスが十字架の上で処刑された後、失意のうちにエルサレムを後にし、エマオという村へ向かっていた2人の弟子に、イエスご自身が現れる、というお話です。

エマオに向かって、これまでのイエスの出来事を論じ合って歩いている2人に、イエスご自身が近づいて来られて、一緒に歩き始められるのですが、不思議なことに、2人は気づきません。聖書は、「2人の目は遮られていて」と記しています。(同24・16)

イエスはこの2人に尋ねます。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」。すると、2人はイエスの十字架の出来事や、イエスに対して持っていた期待を話します。加えて、婦人たちがイエスの墓で、イエスを見つけずに天使と会い、「イエスは生きておられる」と告げたと語ります。

これを聞いたイエスは、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを、2人に説明されます。

目指す村に着くと、イエスはさらに先へと行こうとされますが、2人の弟子は無理に引き止め、一緒に食事の席に着きます。

イエスがパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになると、2人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなります。

復活したイエスに気付き、イエスと出会うことによって、2人の弟子の目が開け、改めて目覚める者となったお話です。

主の復活を祝う私たち教会は、御言葉とご聖体によって、改めて復活の主と出会い、私たち自身の目が開かれて、目覚める者となるようにと招かれています。イエスがいつも共に私たちと歩んでくださるのです。

目覚める

遠山 満 神父

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目覚めについて、印象に残っている2人の司祭の言葉があります。

1人は私達の修道会の兄弟の言葉です。彼は、アメリカで管区長に選ばれ、就任式が行われた翌日のミサの時、次のような挨拶をしました。

「私は昨晩、嬰児のように眠りました。何故なら、目覚めた時、泣き始めたのです。自分が置かれている現実を知って」。

もう1人は、神学部で教鞭を執っていらした神父様の言葉です。この方は復活の日の目覚めについて、「それは、手術後の目覚めに似ているのかもしれません」と仰いました。全身麻酔の手術を、未だ受けたことのない私にとって、この目覚めは未だ想像の域を出ません。

聖書には、復活の時の状態が次のように書かれています。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」。(黙示録21・3~4)

また、復活の姿をイエス様が前もって示された変容の場面では、そこに居合わせたペトロが、「先生、私達がここにいるのは、素晴らしいことです。仮小屋を3つ建てましょう」と言っています。(マルコ9・5)ペトロは、その光景の余りの素晴らしさに、そこに暫く留まりたかったのでしょう。

イエス様は、最後の晩餐の席で仰いました。

「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。(ヨハネ17・3)ここでの「知る」は、体験するという意味です。

復活の日の目覚めを体験させて頂き、その素晴らしさを周囲の人々に伝えていくことができたらと思います。


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