目覚める

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

最近、私は眠くて仕方がない、春眠暁を覚えず状態が多くなってきました。

以前のように、目もぱっちり開いて、気力も漲るという状態は、残念ながら最早なくなってしまい、目は開けているのも努力が要りますし、何かを「よーし、やるぞー!」というような清新な気力もまず感じなくなってしまっています。

それでも、まだまだ瑞々しいまでに気力を感じるのは、オーケストラや合唱を指揮している時で、この輝かしいまでに目覚めている時間を私は愛しているのです。

昨日はベートーヴェンの交響曲第9を、一昨日はラフマニノフの交響曲第2番を、それぞれ指揮しました。まさに大変ではありますが、血が体中を駆け巡るのを感じるのです。

ところで聖書にも、目覚めに言及している所があります。

例えば、主イエスが祭司長たちに捕縛される前、悲しみに満ちて血の汗を流すほど苦しんで祈っておられた時、弟子たちは近くにいながら、共に目覚めているどころか、眠りこけていました。

また別の時にイエスが語られた10人の乙女の例えでは、5人は賢く、花婿の到着が遅れるかも知れないと、ランプに予備の油まで用意したのに対し、あとの5人はそういう細やかさ無しに、出迎えました。果たして、花婿の到着は遅れて夜中になり、ランプをつけて出迎えた賢い5人の乙女は花婿と共に宴席に入り、油切れでランプに灯をともせなくなっていた残る5人の乙女らの前で扉は閉じられてしまったという事です。(参:マタイ25・1~13)

この例え話は、「神の国はいつ来るか分からないので、私たちはいつも目覚めてそれに備えているように」との主の教えなのです。

確かに私は目覚めていません。今日の夕食は鶏なのですが、ワインを用意するのを忘れていました。

目覚める

崔 友本枝

今日の心の糧イメージ

私は毎週、ミサの他に「祈りの会」に参加している。この会は、世界のあちこちにあるカトリック信者の集いだ。たくさんの教会から集まり、主を賛美することを目的としている。神父さまも信徒も一緒に輪になって祈る。

特徴としては、願いごとよりも、神さまが私たちのためにしてくださった素晴らしい出来事を思い起こし、ほめたたえるところにある。たくさんの感動的で美しい歌を歌う。自由な言葉で祈りを捧げる。喜びがあふれて踊る人もいる。日々の心配事をいったん脇において、皆が心を一つにして神さまが私たちにしてくださったことを思えば、感謝しかないと気付いていく。言葉を重ねて感謝を表していくうちに、これほどの愛を注いでくださる神さまには「賛美することこそふさわしい」という気持ちになる。

この祈りの集いに毎週通っていると、だんだんと心の目が開いてくる。自分だけの狭い世界に閉じこもっている時には見えなかったことが徐々に見え出すのが嬉しい。

例えば、他の人の苦しみに心が向かい、祈りたくなる。神さまを求めている人の心を感じられるようになる。外国であれ、国内であれ、困窮している人のことが自分の仲間の出来事だと感じられるようになる。

これは、聖霊、つまり神の霊が私たちの小さい心に翼を与え、広い世界に行けるように働きかけてくださっているのだろう。

しかし「目覚める」とは、同時に、自分が変わりやすく頼りない者、無力な存在だとわかることでもある。錯覚からも目を覚まされるわけだ。無力さを感じれば感じるほど祈りたくなるのでこの気づきもまた素晴らしい。

祈りを忘れると私たちはすぐに自分という檻の中に入ってしまうからだ。


前の2件 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11