目覚める

三宮 麻由子

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「目覚める」という言葉を聞くと、私の頭のなかではいつも、ヨハン・セバスチャン・バッハのオルガン曲「目覚めよと呼ぶ声あり」が鳴り出します。カンタータ第140番として知られるこの曲を初めて聞いたのは、中学1年生のころでした。

素朴なテーマの旋律をベースの音が支え、途中からやや固めの音色で第3の音が入ります。この旋律は賛美歌の一つで、イエスが語る「10人の乙女のたとえ」(マタイ25・1~13)の話がテーマです。当時はそうした背景を知らずにいきなり聞いたのですが、鮮やかでまっすぐな旋律に圧倒され、丸々一週間、この曲が頭の中でなり続けていました。

後日、曲とイエスのたとえ話が結びついたとき、今度はこの曲がイエスの声となって響いてきました。

「とにかく、目覚めておいで。アンテナの受信モードをオフにしてはいけないよ」

現代語に訳すと、そんなふうに聞こえました。ちょうど、技術の授業でラジオの仕組みを勉強していたころだったからでしょう。

まだ何に目覚めよという意味かは分からず、何を受信すればいいのかも思いつきませんでした。でも、1週間心で鳴り続けた旋律とそこから響いてきたイエスの呼びかけは、胸の奥に点る明かりとして私の歩みを照らすようになりました。

人生には、すべてを投げ出して受信拒否、というときもあります。それでも、神様が発信する電波は、私たちに届けられ続けているのだと思います。休んでもいい、止まってもいい。ただ、必要なシグナルがきたら受信できるように準備していることが大事。そのシグナルはきっと、未来に向かう行動のヒントになるから・・・。

このカンタータは、いまも私の「パワーミュージック」として、折に触れて心の底から静かに語りかけてくれるのです。

目覚める

シスター 山本 久美子

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聖書に、「目を覚ましていなさい」という言葉が何回も出てきます。聖書のメッセージは、たんに「眠りから覚める」ことではありません。いろいろな意味が含まれています。

私たちの日常でも、目覚めの悪い日がありますが、その状態を考えると、「目覚める」ということがどういうことなのか、自ずと理解できると思います。

目覚めが悪い日、私は、体も頭も心も正常に動かなくなり、物事がうまく運ばなかったり、人間関係もスムーズにいかなかったりする場合もあります。そのため、周りの動きにも鈍感になったり、逆に過剰に反応してしまったりします。眠っているような状態であると、なかなか本来の自分らしさ、自然な反応や動き、関わりが自然に出てこないということです。

逆に、すっきり目覚めた日は、全く違います。朝から気持ちもよく、その日の活力も自然に出てきます。周囲にも、自分自身や出会う人々にも落ち着いて目を向ける余裕が持てて、能率よく仕事もはかどり、冷静な判断が下せます。

「目覚める」というのは、体も頭も心も、つまり、私という存在全体が眠っていない状態を指すのです。どこか、自分自身をも第3者的な視点で眺めることができる状態ではないかと思います。

しかし、眠っていても目覚めていても、外界は変わることはありません。人生は変わらず、同じように出来事は起き続け、問題と思えるようなことも起きますが、「目覚めている」なら、受け止め方が変わるのでしょう。何か問題が起きるとき、当然動揺するでしょうが、その動揺さえも穏やかに意識し、何が大切で、どう行動するのかを判断できる落ち着きを持ちなさいと、聖書は勧めているのだと思います。


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