ゆるし・いやし

森田 直樹 神父

今日の心の糧イメージ

聖書の中には、イエスが病を抱えている人々を癒された話が数多くあります。そのうちの1つに、中風を患っている人を床に乗せて運んでくる話があります。家の中にいるイエスの前に置こうとしますが、群衆に阻まれて運び込めません。ついに、屋根に上って瓦をはがし、イエスの前に病人を床ごとつり降ろします。その時、イエスは言います。「人よ、あなたの罪は赦された。」(ルカ5・20)

イエスの時代、病は罪を犯した結果だと考えられていました。さらにイエスは言います。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われます。(同5・24)

すると、「その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた寝台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って」行きます。(同5・25)

つまり、このお話では、赦しと癒しが同時に告げられて、それが実現していきます。

「病は気から」などと言われますが、心配事やストレスが重なって身体の不調があらわれることがあります。逆に、心の重荷から解放されて、病状が改善することもあります。

イエスがもたらすものは、心と身体、すなわち、私たちの人間存在全体を包み込んで、赦し、癒すものだと言えます。単に身体の不調だけを癒されるのではなく、心の重荷をも取り去られるのです。

イエスと出会う人たちは、このような赦しと癒しを体験していきます。たとえ、身体の不調が目に見えて改善しなかったとしても、心の中は、イエスがもたらす平安で満たされていきます。

今日もイエスは、私たちに告げられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。(マタイ11・28)

ゆるし・いやし

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

よく言われるように、自分や自分の大切な人にひどい危害を加えられた場合、私は手を下したその相手を、本当に赦せるでしょうか。

その信じられない程残酷な犯人に、何としても厳罰を、と血を吐くような声をあげて訴える親兄弟の声は時々報道され、私達にも、それは尤もだと納得させるではありませんか。それにも拘わらずそれを赦しなさいと、私はどんな顔をしてその悲しみに沈む被害者に言えるでしょう。やはり、私にはそんなことは言えません。

ですが、聖書にはこういう驚くべき言葉が書いてあります。これはあの有名な、山の上の説教として、主イエスの語られる言葉の一部です。

「私の言葉を聞いているあなた方に言っておく。敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。‥人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな恵みがあろうか。罪びとでもそうしているではないか」と。(参:ルカ6・27~32)

強烈です。私が何とか本当にそうしようと心に誓おうとすると、時として弟子のペトロが言ったあの言葉も脳裏に浮かぶので厄介です。

「主よ、私に対してひどいことをした人を、何回赦すべきでしょう。7回までですか」。すると主は「7回どころか、7の70倍までも赦しなさい」と答えられたのです。(参:マタイ18・21~22)

これが単なる上から目線の言葉ではない証拠に、このイエス・キリストは十字架にかけられ、絶命眞近の時でさえこう仰いました。

 

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と。(ルカ33・34)

死に直面してなお、こういう心でおられる方の言葉なので、私は魂を挙げてこれを信じたいのです。


前の2件 2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12