ゆるし・いやし

崔 友本枝

今日の心の糧イメージ

子供の時、妹とケンカをしてゆるせないことがありました。

そんなある日、ひとつの聖書の場面が心に浮かんで離れません。

それは、王様に莫大な借金をしていた家来の話でした。王はすべてを返すようにと要求しましたが、たとえ一生涯働いても、とうてい返せない額だと悟ると、家来があわれになりました。それですべてを帳消しにしてあげました。しかし、家来は外に出ると自分にわずかな借金をしている仲間に容赦なく取り立てをしました。そして「もう少し待ってくれ。必ず返すから」とひれ伏して頼む彼を牢に入れてしまったのです。それを見ていた別の仲間が心を痛めて王に話しました。王は「不届きな家来だ。お前が頼んだから借金を帳消しにしてやったのに。おまえも仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言ってこの家来を牢に入れてしまったのです。(参:マタイ18・32)

私は子供でしたが、この話の意味をよく分かっていました。神であるイエスさまが、私たちを無条件でゆるし、十字架の死によって罪の償いを代わりに果たしてくださったのに、私たちが仲間の小さな過ちをどうしてゆるせないのか、ゆるせるはずだよ、という呼びかけです。

この時、私が何をゆるせなかったのかは、もう思い出せませんが、聖書の話がくっきりと浮かんで消えなかったことは、はっきり覚えています。

私たち人間は、神さまがゆるしてくださったことを思い出さなければ、なかなか人をゆるせないものです。しかし、「ゆるそう」と決めると、つらい思いや傷ついた気持ちが徐々に癒やされていきます。それは、握りしめていた怒りや恨みなどを手から放すからでしょう。

相手をゆるすことで先に自分が救われるのは不思議です。これは神の恵みです。

ゆるし・いやし

堀 妙子

今日の心の糧イメージ

2016年3月、イエメンでの神の愛の宣教者会の聖堂と老人福祉施設がイスラム過激派によって襲撃された。4人の修道女が殺害され、多くの怪我人が出た。インド人のトマス神父はこの襲撃のさなかに拉致された。その後、トマス神父の所属する修道会から、彼の解放のために祈ってほしいという願いが世界中に配信された。私の所属する教会の小さなロザリオの会でも、無事を願うためロザリオを唱えた。

トマス神父、解放の日は突然訪れた。2017年9月、トマス神父が18カ月ぶりに私たちの前に姿を現した。フランシスコ教皇の足元にぬかずくトマス神父がいた。やせ細ったトマス神父の姿に、受難を経て復活したような不思議な佇まいを感じた。「自分のために祈ってくれた人びとに感謝するとともに、イスラム過激派の人びとにも感謝する」と話した。

2017年10月、トマス神父が所属する修道会の元総長が来日するという。その講話を聴きたいと願った。講話のなかでトマス神父の話をされるのではないかと思ったからだ。講話は愛の話になり、自然にトマス神父の話になった。トマス神父を支えていたものは何かと聞いた時に、「毎日、心のなかでミサを献げていた」と答えたそうだ。司祭の献げる最高の祈りであるミサの力を思った。家に戻るとミサの式次第を読み返してみた。

ミサの始まりには、自分の罪のゆるしを願い、イエスのみことばを聴く。その後、パンの形になったイエスのおん体とおん血をいただく。ミサは、天上と地上をつなぐ最高のゆるしといやしの場だ。トマス神父にとって、イスラム過激派の人びとも自分の友となっていったのだろう。

敵までも友として感謝したトマス神父の司祭としての愛に、キリストを見る思いがする。


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