私は子供でしたが、この話の意味をよく分かっていました。神であるイエスさまが、私たちを無条件でゆるし、十字架の死によって罪の償いを代わりに果たしてくださったのに、私たちが仲間の小さな過ちをどうしてゆるせないのか、ゆるせるはずだよ、という呼びかけです。
この時、私が何をゆるせなかったのかは、もう思い出せませんが、聖書の話がくっきりと浮かんで消えなかったことは、はっきり覚えています。
私たち人間は、神さまがゆるしてくださったことを思い出さなければ、なかなか人をゆるせないものです。しかし、「ゆるそう」と決めると、つらい思いや傷ついた気持ちが徐々に癒やされていきます。それは、握りしめていた怒りや恨みなどを手から放すからでしょう。
相手をゆるすことで先に自分が救われるのは不思議です。これは神の恵みです。
トマス神父、解放の日は突然訪れた。2017年9月、トマス神父が18カ月ぶりに私たちの前に姿を現した。フランシスコ教皇の足元にぬかずくトマス神父がいた。やせ細ったトマス神父の姿に、受難を経て復活したような不思議な佇まいを感じた。「自分のために祈ってくれた人びとに感謝するとともに、イスラム過激派の人びとにも感謝する」と話した。
2017年10月、トマス神父が所属する修道会の元総長が来日するという。その講話を聴きたいと願った。講話のなかでトマス神父の話をされるのではないかと思ったからだ。講話は愛の話になり、自然にトマス神父の話になった。トマス神父を支えていたものは何かと聞いた時に、「毎日、心のなかでミサを献げていた」と答えたそうだ。司祭の献げる最高の祈りであるミサの力を思った。家に戻るとミサの式次第を読み返してみた。
ミサの始まりには、自分の罪のゆるしを願い、イエスのみことばを聴く。その後、パンの形になったイエスのおん体とおん血をいただく。ミサは、天上と地上をつなぐ最高のゆるしといやしの場だ。トマス神父にとって、イスラム過激派の人びとも自分の友となっていったのだろう。
敵までも友として感謝したトマス神父の司祭としての愛に、キリストを見る思いがする。