ゆるし・いやし

中井 俊已

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「罪を憎んで人を憎まず」と言います。できれば、人を憎まず、怒りをももたず、気持ちよくゆるしたいものですね。

例えば、誰かが自分との約束を忘れてしまったとき、ゆるせるでしょうか。

自分だって同じことがあったと気づけば、ゆるせるでしょう。あるいは、あの人も物忘れが多くなっただろうからと、相手の弱さを思いやれれば、ゆるせるでしょう。

「仏の顔も3度まで」と言われますが、3度ゆるせるなら、あなたは仏のように優しい人かもしれません。

でも、それ以上になると、どうでしょう。

「これで連続6回目。あいつ、何を考えてるのか!」と、私なら多少腹が立ってくると思います。

それでも、イエスは「ゆるしなさい」と言われます。

弟子のペトロが、「主よ、兄弟が私に罪を犯したなら何回赦すべきでしょうか。7回までですか」と聞いたとき、「7回どころか7の70倍まで赦しなさい」と言われたのです。7の70倍、つまり何度でも、限りなく、ゆるしなさいと。(参・(マタイ18・21~22)

こんなとんでもなく難しいことを臆面もなく言えるのは、イエスが神だからです。

約束を忘れた程度ではなく、明らかに自分を侮辱したり、悪意をもって嫌がらせをしたりする人を、心からゆるすのは、誰にとっても大変難しいことです。

でも、神は、私たちが悔い改めれば、いつでも何度でもゆるしてくださいます。

父なる神がイエスを人としてこの世に派遣されたのは、私たちの罪をゆるし、あがなうためでした。十字架の犠牲によって、私たちはあがなわれ、永遠の幸福に至る門が開けたのです。

この慈悲深い神様に感謝しながら、私も慈悲の心をもって人に接し、心からゆるせる人になりたいと思います。

ゆるし・いやし

小川 靖忠 神父

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「ゆるし・いやし」は、人が安心し、のびやかに生きていくうえで大事なキーワードであるように思います。単に、言葉だけではなく、実際に中身のともなった行いがついてくるとありがたいものです。

アシジの聖フランシスコの「平和のための祈り」の中に次のような言葉があります。「ゆるすことによってゆるされ」という祈りです。自分がゆるされるためには、人をゆるすことが条件ですよ、というのではなく、自ら進んで誰かをゆるす心がもっと大事ですよ、といっているのでしょう。

わたしが大神学校にいたときの話です。かなり昔のことです。当時は、外出する時には院長の許可を必要としていました。たまたま後輩といっしょに外出しようということになって、彼が許可をもらいに行ってくるというので、わたしの分も一緒に頼んだのでした。そして外出。帰宅した時、玄関で、ある司祭とばったり。「小川さん、あなたはどこに行ったんですか」「一緒に外出していました」「あなたの外出許可は出ていませんでしたよ」。万事休す。なんと後味の悪いこと。後輩をゆるせませんでしたね。数日間は口もきくことができないほどに腹が立ちました。

若い時は血の気が多いのか、興奮してしまいます。

記憶はしていますが、今は、もちろん、彼のことなど気にしてはいません。心の広さ、深さ、温かさの必要性に気付くには、その人生で、人との出会いがいかに大事であるかが分かります。

自分の中にある怒りがおさまらないと、その事柄から解放されませんし、いやされることもありません。「ゆるすこと」は、すなはち、「いやし」ではないでしょうか。双方にとって、心と体の安泰と健康を保証してくれる、大事な業であるような気がします。


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