それでも神さまに助けてくださいと祈り、表向きは普通に雑誌の編集や書物の校正などに従事していました。しかし、煩悶は極に至り、自殺しようとまで考えました。が、信仰と祈りがあったので、土壇場で踏みとどまりました。
そのとき、戦後よく読まれていて、赤本と呼ばれていた『家庭医学』という本が家にあったので、藁にもすがる思いで、それを繙いてみました。すると、ある頁に「抵抗療法」という言葉がありました。その字を見た瞬間、自分はずうずう弁だから、人の前でしゃべれないとか、大学出ていないから、知識人の著者に会えないとか、やる前から、自分はできない、自分は駄目だと思って、劣等感に陥り、そのためにノイローゼになっているのだ。何事も当たって砕けろ、の精神で、まず実践してみなければ、出来るか出来ないか分からないだろう、ということに気がつきました。それで、勇気を奮い起こして、他人と積極的にしゃべるように努めました。すると何とすらすらとしゃべれるようになり、元気を取り戻すことができました。
要するに人にはみな自然治癒力があるのです。
だが不思議なことに、この地層は汚れた水を濾過して清らかな水に変えてくれる大変重要なものなのである。つらい経験やその記憶が、人の中で精妙なろ過装置になって、他人への優しい感情を生むのだ。
「僕にはすごく優秀な兄がいてね、学生時代の僕はいつも教師から兄と比べられて、本当につらかったんだ。だから僕の生徒には、兄弟の話は絶対にしないんだよ」と言った中学の先生がおられた。これはまさにつらい経験が濾過されて、思いやりを生んだ例の一つに感じられる。この先生が生徒に思いやりを持って接する時、先生自身も古い悲しみから癒やされておられるのではないだろうか。
人は、自分のことを忘れ、誰かを癒やそうとした時に、その思いによって初めて自分が癒やされる存在であるらしいのだ。
人がつらい記憶を忘れないでいるのは、決して復讐などのためではなく、いつかその記憶を活かして、善きものを生むためなのかもしれない。そう思うだけで、私もまた癒される。