さて、長女に初孫が生まれた時、孫は子よりもかわいい以上に、自分の子育ての時には無中で気づかなかった事を気づかせてくれる素晴らしい存在と知りました。
赤ちゃんの無心な寝顔を見ていると、私が赤ちゃんの時、夫の突然の死で、私を残して東京の実家に帰らねばならなかった母の心を想い、一方で、残された幼い孫を慈しみ育てた祖父母の心を想い、一つのいのちが繋がり拡がってゆく豊かな気持ちになるのです。子育てを一歩離れて見られるゆとりがもたらす人生の深い味わいなのでしょう。
慈しみ深い神は、死ぬべき運命にある私たち人間を、神のいのちと共に永遠に生きるように招いて居られます。キリストを信じる者にとって死はその永遠のいのちへの通過点。つまり、新しいいのちへの喜ばしい誕生なのです。
孫は抱き上げると泣き止んで、すやすやと眠りました。この世の生を終えて新しいいのちに生まれ変わる時、神はこんなふうに、私たちひとり一人を優しく抱き上げて下さるのかしら・・・、孫をあやしながら愉しく想像したことです。
半世紀以上前に出版された評論家・亀井勝一郎著『我が精神の遍歴』を開くと、薄茶けた頁の文字は、時を越えて私に語りかけました。〈自分は一体何者であるか〉と。このメッセージは旅に出る私自身の心の声と重なりました。
多くの著作を遺した亀井は北海道出身。函館の幾つもの宗派の教会が林立する生誕の地は、自宅の隣がカトリック元町教会、向かいは仏教のお堂という稀に見る宗教的な場所でした。亀井は聖書の言葉を引用するなど、その文学世界からは仏教とキリスト教の垣根を越える感覚が伝わります。
出発時刻が近づき、私はホームへと向かいました。新幹線は台風から逃げるように加速しました。
宿泊先の窓からは函館の街が一望でき、視線を落とすと教会群の屋根が見えました。2日後の夜明け前、ふと目覚め外を見やると、遥か彼方の山々からゆっくりと朝陽は揺らめき昇り、辺りはひと時琥珀色に染まりました。この新たな太陽に、私は〈本物の自分になろう〉と誓いました。そして、17年勤務した介護職を辞し、詩人の道ひとすじに生きる時機が来た、と直観したのでした。この霊的な太陽はきっと、天が望む季節の中で、誰もが己の使命に生きる豊かさを密かに呼びかけていることでしょう。