誕生の喜び

村田 佳代子

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よろこびとは嬉しいと感じることですが、漢字を当てはめてみると様々な種類の「よろこび」があることに気付きます。「嬉しい」の女偏を取った、音読みがキとなる字が一般的ですが、歓迎のカンも、悦楽のエツもよろこびと読むことが出来ます。一方、誕生の漢字表現は一通りです。意味は勿論生命がもたらされることですが、新しい組織や活動や制度などの始まりにも誕生という言葉を当てはめます。

生命や今まで存在しなかった物や事が生まれる時の、生んだ側の喜びは、産みの苦しみを乗り越えた安堵と感謝にあります。対する周囲の喜びは、待ち望んでいた期待と歓迎にあり、両者は微妙に違います。

このことが聖書には的確に記述されています。ルカによる福音書です。生む側の喜びを伝える箇所はマリアのエリザベツ訪問です。

「あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子は喜んで踊りました。」(1・44)というエリザベツに対し「私の魂は主をあがめ私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」(1・47~55)ではじまるマリアの讃歌が続きます。2人とも自分自身の身に起こる誕生の神秘について喜びを実感しています。

かたや羊飼いと天使の箇所は「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(2・10)と言われて驚き恐れる羊飼いに、天使たちは「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和御心に適うひとにあれ」(2・14)と続けます。何だろう、とにかく行ってみようと反応する羊飼いは、誕生を受け取る側の期待の歓びです。

誕生、未知なる何かが生まれるとき、生もうとする努力は神のみぞ知るであって、待っている周囲の祈りに支えられてこそ成就するのです。立場の違いを認め共に祈る深い信仰があってこそ、「誕生のよろこび」を共有できるのです。

誕生の喜び

片柳 弘史 神父

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「最後の審判」や復活など、聖書には死後のことが色々と書いてある。だが、残念ながら、わたしたちが生まれる前にどこにいたのかということは書かれていない。わたしたちはどこからやって来たのか、想像力が膨らむところだ。陶芸家の手から茶碗が生まれてくるように、人間は神様の手の中でこねられ、形を与えられて生まれてきた。わたしはそんな風に想像している。

神様は最高の芸術家だ。作品を創るときに、決して妥協することはない。どの作品にも愛情を込め、これでもかというくらい完璧に仕上げてこの世界に送り出す。わたしたちは、誰もが神様の最高傑作なのだ。失敗作は1つもない。もしわたしたちが自分に不満を持ち、「わたしなんかダメな人間だ。生まれてこなければよかった」と言えば、神様はきっと悲しまれるだろう。

神様という芸術家は、無意味なものを決して創らない。必ず、何か使命を与えてこの世界に送り出す。生まれてきた以上、わたしたちの人生には必ず意味があるのだ。人生が思い通りにならないときや、大きな失敗をしたとき、わたしたちはつい、「自分の人生には意味がない」と考えてしまう。だが、それは単に「意味が分からない」ということであって、「意味がない」ということではない。神様がこの世界に送り出した以上、わたしたちの人生には必ず意味があるのだ。

ときどき、「わたしは、誰からも望まれずに生まれてきた」と嘆く人がいる。だが、そんなことはありえない。神様が望まなければ、誰もこの世界に生まれてくることなどできないからだ。わたしたちは誰もが、神様の愛の中から生まれてきたかけがえのない生命であり、神様の最高傑作。そのことを忘れないようにしたい。


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