大きな被害を受けた地域で、家族や親しい人たちを亡くした人たちを前にして、どのようなクリスマスの喜びを伝えようか迷いましたが、参列された皆さんは、実に心からキリストの誕生を祝ってくださいました。
そんな中、いつも教会にご奉仕してくださるあるご夫婦がそわそわしておられるのに気が付きました。お聞きすると、息子さんご夫婦に赤ちゃんが生まれそうなのだ、とのことでした。「初孫になるんです」そうおっしゃっていました。
無事にクリスマスのミサを終え、その後のパーティーでも楽しいひと時を皆で過ごした後、さきほどのご夫婦から、無事に赤ちゃんが生まれたことを聞かされました。
人々の命を奪った大津波に傷ついている街で、主キリストの誕生をお祝いできただけでなく、新しい生命の誕生の喜びも感じさせていただいた、喜びに満ちたすばらしい夜になりました。
ふと空を見上げると、さらに嬉しいことに小雪がちらちらと舞っておりました。
ある司祭からこんな話を聴いたことがあります。勉強もスポーツも一番になることを我が子に期待していた親がいたそうです。しかし、その子がある日、行方不明になりました。捜索されているあいだ、「生きていてくれればそれだけでいい」と思ったそうです。子供は無事に帰ってきました。親御さんは、その日から我が子が元気であること以外、何も望まなくなったといいます。
親の立場とは違いますが、私は姪が生まれた時、それに近い感情を味わわせていただきました。「命は何と美しいのだろう、人はなんと立派に造られているのだろう」と感動したのです。
さて、今から2千年前、天地を造られた神が人間となって地上に来られました。それが「クリスマス」です。
この驚くべき出来事を「親の気持ち」として考えると、案外、突拍子のないことでもないと思えます。親は、子供のためならばどんなことでもするからです。神さまは、私たちを愛していることをどうしても知って欲しくて「人」となられたのでしょう。親が子を慈しむ気持ちと同じです。そう考えると、全能の神が限界ある人間になられたことは、とても自然なことのように感じられるのです。