私達がともすれば神様の存在も信じられないという理由の一つ、にこの、私たちがいくら理解しようと努めても、頭脳や理性もきりきり舞いさせられてしまうような、信じ難い宇宙の大きさがあり、他方、それが成立するためのミクロの世界でも、私達がどうしても感覚的に捕らえられない一つ一つの原子の中でも、中性子の周りを電子が物凄い速さで整然と回っている・・等々が、神の存在を否定させたくするのです。
確かに、圧倒的に物理的な世界を見れば、そこに私の名を呼んで下さるような人格的な神を見出すのは、ちょっとやそっとでは出来そうもありません。
それでも私は宇宙の大きさが、今現在知られているよりも無限にあったとしても、「神は全宇宙を衣のように折りたたむ」という、物凄い神の偉大さ、全能ぶりの前には、たった一枚のハンカチにも及ばないのだと思っています。
そして、この神はこの世界を「よし」と見られたように、私達の誕生を、それはもう喜んで下さっているとの事なのです。それを思うと、私は心が高鳴るのを覚えます。そして、この事がクリスマスの喜びにつながるのです。
ひたすら黙ってその愚痴を聞いたあと、私は言った。
「あなたねえ、K君が生まれた時の喜びを思い出したら。そしてK君が初めて意志を持ってあなたに笑いかけた日のことを思い出したら」と。
しばらく沈黙が続いた。そして、「ごめんね。長い時間とって・・。ほんまやね、大人になってからの息子のことしか考えてへんかったわ。そうや、赤ちゃんの時のことを思い出したらいいんやわ。これからゆっくり思い出すわ」といって電話を切った。
後日、また電話があり、「いいこと教えてもらったわ。息子に腹が立ったら、赤ちゃんの時の笑顔を思い出すことにするわ」と明るくいったので嬉しく思った。
アランの『幸福論』の中の一節に「幸福だから笑っているのでは ない。むしろぼくは、笑うからしあわせなのだ、と言いたい」というのがある。幼子の笑いの原点である。
そこで私は考える。マリアさまもヨゼフさまも、幼な子イエズスさまの笑顔に、明日への希望を感じたのではなかったかと。馬小屋で生まれ、先の見えない暮らしが待っている中、イエズスさまの笑顔がおふたりの光明になっていったにちがいないと・・・・。