2017年12月30日の心の糧

祈りの時

高見 三明 大司教

今日の心の糧イメージ わたしたちは、入学試験や入社試験に合格したり、スポーツで勝利を手にしたり、長年の努力や苦労が報われて表彰されたりするとき、その喜びをまず一番大切に思っている人に伝えようとします。

あるいは自然の災害に遭遇したり、事故に巻き込まれたり、いのちにかかわるような大きな手術を受けなければならなくなったりしたとき、誰かに助けを求めようとします。自分の喜びや悲しみ苦しみをほかの人と分かち合うとき、喜びは倍になり、悲しみや苦しみは和らぎます。

同じ嬉しい気持ちや辛い気持ちを神さまに伝え、分かち合うことが祈りです。祈りは、わたしたちの心の中にある思いを、神さまに聞いてほしいと願いつつ神さまに伝えることです。嬉しいことやありがたいことがあれば感謝の心が生まれ、それを神さまに伝え、神さまを賛美します。それは、善いものはすべて、神さまから与えられると信じるからです。

病気の苦しみや不安を抱え、人間関係に悩み、生活が困難な状況にあるときなど、周囲の人々に物質的な助け、心の支え、癒しなどを求めます。しかし何よりも神さまの助けを求めたくなります。それは、最後に救うことができるのは神さましかいないと信じ、絶対的な信頼を神さまに置くからです。さらに、わたしたちは、人を傷つけたり、信頼関係を壊したりすることがあります。そんなとき、その相手にあやまり、ゆるしてもらう必要があります。

でも実は、ほかの人に対して行うことは、善いことにせよ悪いことにせよ、神さまに対して行うことと同じなのです。なぜなら、すべての人は神さまによって造られ、愛されているからです。結局、祈るとき、わたしたちは神さまとのつながりを確認するのです。

2017年12月29日の心の糧

求める

末盛 千枝子

今日の心の糧イメージ 求める、とか欲するということを、英語では何々が欠けている、不足しているというのと同じ言葉を使うようです。たしかに、私たちは、何かが不足しているから求めるのかもしれません。そして、求める、という日本語には、何かとても切実な感じがあります。そして、それにもかかわらず、なお、とても遠慮がちな感じがしますたぶん、何かを求めているという時、本来それは、具体的に、目の前のすぐに手に入るようなもの、たとえばお金を出せば簡単に買えるというようなものを言うのではなくて、何か、静かに待っているしかない、それだけに、とても大切なものを待っているという感じがあるのだと思います。心の耳を澄まして、何かを待っている、ということでしょうか?

目と耳と心を澄まして、自分でも求めているものが、はっきりと具体的な言葉にはならないようなことをじっと待っている、あるいは時が来るのを待っている。それが求めるということのような気がします。そして、そのようにして何かを求めて待つという姿勢は、結局は祈りそのものではないかと思います。

祈りながら待つ、ということは、もう全てを天にお任せして、自分では殆ど忘れてしまっている、ということでさえある、そんな風に思います。任せて、自分がいま果たさなければならないことに集中して日々を過ごす時、ふっと気がつくと、その求めていたことが、本当に不思議な形で満たされていることを発見することがあります。それをそのような形で満たされたのだと気がつくためにも、心を澄ましていなければならないもののようです。求めよ、さらば与えられん、というのはこのことだったと思います。


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