2017年10月31日の心の糧

それでも感謝

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ イエス・キリストは弟子たちに、「私について来たいなら、自分の十字架を背負いなさい」と言った。(マタイ16・24)十字架というと、病気や怪我、挫折など何か苦しいことを連想してしまいがちだが、そうではない。私たちが背負うべき十字架とは、神から与えられた使命のことなのだ。

例えば、ある人は神から、子どもたちの親となる使命を与えられている。子どもが病気になったり、反抗して言うことを聞かなかったり、ときに親としての使命は苦しみを生むこともあるだろう。しかし、同時に親としての使命は生きがいや喜びの源でもある。子どもが育っていくのを見る楽しみ、子どもと共に生きる喜びは、親となる使命を引き受けたからこそ生まれてくるものなのだ。苦しみを伴うからといって使命を担うのを拒めば、生きる意味や喜びさえも拒むことになりかねない。神父として生きる使命も同じだ。たくさんの仕事に追われたり、孤独を感じたりするとき、神父として生きる使命は苦しみを生む。だが同時に、神父になったからこそ味わえる人生の充実感や奉仕の喜びは、なにものにも代えがたいものだ。

使命が苦しみを生むとき、私たちはつい「なぜ私がこんな目にあわなければならないのか」「もう投げ出してしまいたい」と思ってしまいがちだ。だが、そんなときには、使命を与えられたありがたさを思い出したい。この使命があるからこそ私は生きがいを感じられるのだし、この使命のお蔭で大きな喜びを味わってきたのだ。そのことに気づけば、神から与えられた使命の十字架を、感謝して担ぎ直すことができるだろう。神から与えられた使命の十字架は、ときに苦しみを生むこともあるが、何よりも私たちの生きる意味、生きる力そのものであることを忘れないようにしたい。

2017年10月30日の心の糧

それでも感謝

越前 喜六 神父

今日の心の糧イメージ 新約聖書の中に、とても人々から愛されている有名な聖句があります。聖パウロのテサロニケの信徒に宛てた手紙の一節です。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という言葉です。(1テサロニケ5・16~18)私はこの聖句こそ、どんな境遇の人をも必ず幸せにする秘訣だと考えています。それはその後の言葉が保証しています。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とあるからです。(同5・18)だが、実行することは簡単でないでしょうが、まず一歩一歩努力していくことです。そうすれば、それが良い習慣となり、うまくいくようになるでしょう。

さて、今回はその中で、「どんなことにも感謝しなさい」という言葉に触れたいと思います。どんな人の人生にも吉凶禍福というものがあります。それは必ずしも、自分の善悪の行為の結果とばかりは限りません。善人が苦しみ、悪人が栄えるという現実もあります。けれども、そういう個人的、あるいは社会的な現実に直面したとき、私自身がどういう意識を持つかということは重要な問題です。なぜなら、面白くない、嫌だ、腹立たしいといった感情を抱くと、そういう否定的な意識が、自分自身に否定的な現実を招き寄せてしまうからです。反対に、これも何か私に大事な真理を思い出させてくれるチャンスとして与えられたものだと、明るく前向きに感謝しながら、受け止めると、信じられないくらいの幸運に恵まれることもあります。

人生は、すべて神の大いなるハカライの中にありますが、しかし個々人の幸不幸は、与えられた状況にあるのではなく、その状況を不安や不満で受け止めるか、それとも試練と考え、感謝と賛美の内に受け止めるかにかかっているのです。


1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11