2017年05月31日の心の糧

希望はここにある

シスター渡辺 和子

今日の心の糧イメージ 聖書の中で、イエスは弟子たちに向かって言われました。「天の国は、ここにある、あそこにあるというものではない。天の国は、あなたたちの中にあるのだ」(参:ルカ17・20~21)

青い鳥を探しまわったあげくの果てに、自分たちの身近にいたことに気づいた人たち。希望についても、同じことが言えるのではないでしょうか。求める者には与えられ、探す者は見出すのです。それも思いがけないところに。見つけるためには、希望を失う辛い経験が必要であり、見出す努力が求められます。

イエスが十字架上で死んだとき、弟子たちは希望を失いました。エマオに向かう2人の弟子たちの姿が、そのことを示しています。「イスラエルを救うのは、この方、イエスだと望みをかけていたのに」と、相手がイエスその人だとも気付かずに、2人は暗い顔をして、共に歩む旅人に語りかけました。(参:ルカ24・21)

その2人に向かい、イエスは、ご自分について聖書に書かれていることを話してやり、いっしょに泊まり、食事をともになさいました。食卓でパンを取り、賛美を捧げて分けておやりになったその時、2人の弟子は、この人こそが"希望の人"だったことに気づくのです。

「世の終わりまで、あなたたちと共にいる」(マタイ28・20)という約束を、イエスは守っていてくださいます。私たちが打ちひしがれている時、「わたしは復活してここにいる」と、力強く宣言し、証し続けていてくださるのです。

希望であるイエスを、思いがけないところに見出すためには、私たちも、人生の道を共に歩む人々に手を差しのべ、食物を分かち合う心を持ったらよいのです。その時イエスは、「あなたの希望、私はここにいる」と、ご自分を示してくださることでしょう。

2017年05月30日の心の糧

母の後ろ姿

シスター渡辺 和子

今日の心の糧イメージ 50年以上経った今も、忘れられない母の後姿、それは、私が修道院に入って数ヶ月後、初めての面会が応接間で許された後、1人で門を出て帰っていった時の母の後姿です。

30歳で修道院に入った時、母はすでに70代の半ばで、1人で出掛けると、時に方角を間違えることもあって、外出には私がいつも付き添っていました。その母を残しての入会、付き添いもなく、1人で会いに来てくれた母の手には、柄の長い空色のパラソルがしっかりと握られ、それをコツン、コツンと突きながら門を出てゆく母の後姿に、見送る私は涙を抑えることができませんでした。

走っていって、パラソルの代わりに手を引いてやりたくても、それが許されない悲しさ、それをかみしめている私に、母は一度も振りかえらずに帰ってゆきました。その後姿には、70年余りの間、母が耐え忍んだに違いない数多くの苦労が刻まれているようで、母の背は、以前よりいっそう丸く、小さくなっていたように見えました。

修道院に入るまでの7年間、家の経済を助けるために私は働いていました。毎月の給料を、封も切らずに渡すと、母は押し頂いてから、まず仏壇に供えるのが常でした。その後姿には、歳を取ってから、迷ったあげくの果てに産んだ娘への複雑な思いがにじんでいるようでした。

そんなこともあって、働いた末、修道院に入りたいと申し出た私に、母は「なぜ、結婚しないのかね」と言いながらも、あえて反対はしませんでした。

入会前の夜だったと思います。風呂場で私の背中を流してくれながら、「結婚だけが女の幸せとは限らない」と呟いた母の言葉が、30年見馴れた母の後姿を集約していたのかも知れません。


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