このような神さまの姿は、新約聖書の随所に現れている。たとえば、ルカ福音7章(36~50)には、イエスが招かれて、ある家に食事に出かけたエピソードがある。その国では客が来ると足を洗う水を出し、香油を頭に塗るのが礼儀だ。また、接吻して歓迎の意を表す。ところが主人はこれをしなかった。そこへ「罪深い女」と評判の人が現れてイエスの足下にひれ伏し涙した。彼女は涙で濡れたイエスの足を髪の毛でぬぐい、接吻し、持ってきた香油を塗った。それを見た主人は、イエスが女性の気が済むようにさせているのを不審に思った。イエスは主人の思いを見抜き、こう言う。「あなたはわたしに足を洗う水をくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入ってきてから接吻してやまなかった」と。イエスは女性の突飛なやり方を気にしていない。そんなことよりも彼女の気持ちを全く善いものとして受けとめている。
神さまはこのような方だ。人間がよい動機で始めるなら、失敗しても、多少へんてこりんな結果でも喜んでくれる方だ。
さて、初めは良かったとして、私達夫婦も「終わり善し」の方へ焦点を合わせて行かなければなりません。
なるべく家族へも、世の中のお世話になっている人々へも、無理や負担をおかけせずに、身軽にみまかりたいので、そのためにするべき事があれば、今のうちからボチボチ始めたいと思っています。そうすれば、まずまず元気で逝けるかも知れません。
ところで、社会人として私達はそれぞれ、終わりの務めを果たさなければなりませんが、私自身、また妻もともにキリスト者ですので、終わりは神のみ許へ行きたいのです。そのためには、果たすべき事がもう1つ残っています。
新約聖書のうち、最後の書である「ヨハネの黙示録」には、こう記されています。「あなたは私の名のためによく忍耐したが、初めのころの愛から離れてしまった。悔い改めて立ち戻りなさい」と。(参:2・3~5)
神へのこの愛、この立ち戻りこそは、聖書全体を通して私達に向けられていた、神の、私達への痛切な愛から迸る思いへの、最後の応えなのです。