新潟に到着すると、葬儀の準備に追われました。翌日が通夜、その翌日に告別式が行われました。
お骨になった姑に別れを告げて長男と長女は横浜へと帰っていきました。奏だけが残りました。私たち夫婦は葬儀の後始末のため、3日後に帰るつもりにしていました。
「お母さん、話があるの」奏が真剣な顔で言いました。
「私、お母さんたちより1日早く横浜へ帰るわ」
「一緒に帰りましょうよ。中学生の1人旅は心配だわ」
「大丈夫。私、もう子供じゃないんだから」
奏は頑固に言い張るのです。奏は自分を可愛がってくれた祖母の死に出会い、両親もいずれ死ぬ。それならば少しでも早く自立しなければと考えたようです。
その日、駅まで送っていきました。奏は生まれて初めての1人旅に不安そうな表情です。それでも1人で帰る決意は固いようです。
「気を付けてね」私が列車の窓に手を振ると、奏は新幹線の切符を握りしめたまま、にっこりと笑いました。
出発のチャイムが鳴り、列車が動き始めました。
奏は1人で横浜へと帰って行きました。この旅で自信を付けたのだと思います。奏は2年後、留学のためイギリスへ1人で旅立って行ったのです。
未明の沼のほとり、さざめきのような声で鳴き交わしていたマガンの群が、突然緊張感を持ち、一斉に真上に飛び立ちます。無数の羽ばたきによって、目の前でホホホーと空気の震える音がまっすぐ立ち上がります。私はこれを、羽音柱と名づけました。
彼らの渡りは、悲しいくらい普通で、粛々と行われる儀式のように思えました。私たちは感動しながら見ていますが、彼らにとっては年に2回の「普通の活動」であり、旅に命がかかっているということも、普通なのです。
そう思っても、彼らの旅立ちを目の当たりにすると必ず胸を打たれる、それはなぜか、と考えました。
おそらく、私の心も一緒に旅立ちを体験しているからでしょう。「いってらっしゃーい」と毎日勤めに出る父親を見送る子供のような気持ではなく、長距離の旅路に命をかけて飛び立つ彼らに「気をつけてね、がんばってね」と真剣にエールを送る気持で見るため、私の心も彼らとともに北を目指しているのです。
旅立ちが私たちに意味を成すのは、私たち自身が踏ん切りを付けたり前を向いたりして、意識的に「飛び立つ」ときではないでしょうか。
日常のなかでも、このような意識によって、人生を希望の方向に変えることができると、私は思っています。