そして待降節の間、自分より貧しい人や困っている人のために、何か善い行いがどの位出来たかを小さな紙に記録しておいて、クリスマスの聖劇の舞台上の聖家族にお捧げといって、小さな紙でいっぱいになった篭を、うやうやしく届けたものです。
こういう体験から、神様は常に、正直で貧しい人の味方でいらっしゃるのだという事が、子供心にしっかり根付いていきました。
然し、大人になるにつれ、色々疑問が生じてきました。世の中には実に複雑な人生が沢山あって、一概に貧富の区別を見極める事など出来ません。困っている人といっても、本人が努力していても、上手くいかない不器用な生き方の人もいれば、始めから人生を投げていて困窮し、他人をあてにする人もいます。
ところで私のアトリエでは11月も中旬になると、1日工作の日を設けアドヴェントカレンダーを手作りします。作りながら誰ともなく1年を振り返る発言が出て、次々反省や思い出話に花が咲きます。そして待降節の間1日毎に小さな窓を開け、中のメッセージを受け止めつつ主の御降誕を待つのは、いくつになっても楽しいものです。
現在私がクリスマスに学ぶのは、何事に対しても希望を持って待つという事です。
3年前、当時のローマ教皇ベネディクト16世も、フィナンシャル・タイムスに寄稿し、次のように述べています。
「クリスマスには聖書を読んで学ぶべきだ。政治や株式市場など世俗の出来事にどう関わるべきか聖書の中に見つけられる。貧困と戦わねばならない。クリスマスは、とても楽しいが、同時に深く反省すべきときでもある。私たちは、慎ましく貧しい馬小屋の光景から何かを学べるだろう」
このように述べていますが、聖書には、共感を呼ぶ今日的、現実的記述が多く見られます。
「地上では、海はさかまき荒れ狂うので、国々の民たちはあわてふためく。人々はこの世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさと不安のあまり気を失うであろう。天のもろもろの力が揺り動かされるからである」。(ルカ21・25~26)「天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は過ぎ去ることはない」(同21・33)
クリスマスを寿ぐとともに、ぜひ「聖書をひもとく機会」としたいものであります。