2016年09月30日の心の糧

仕事と私

末盛 千枝子

今日の心の糧イメージ 必ずしも仕事と思っているわけではないのですが、この「心のともしび」の原稿を書かせていただくことは、私にとっては、とても有り難いことです。なぜなら、自分が出会って、なかなか難しいと思っていることを、どうやって乗り越えようかとか、どのように考えたら良いだろうかということを考えるとても良い機会を与えられていると思うからです。

人はだれでもそれぞれが自分には難しいと思う問題を宿題のように与えられていて、日夜それと戦っているような気がします。そして、最近私が思うのは、それはきっと、なぜか自分に与えられている環境だとか、才能だとか、性格だとかをそれに見合って相応しく考え、それを使って生きていくようにと言われているのではないかということです。ですから、いま私は、「仕事と私」と言うと、自分に与えられていることを、まわりの人たちと分かち合うということではないかと思うようになったのです。

これを書きながらはっと気がついたのですが、これはつまりは、聖書にある、「まず神の国と神の義とを求めよ。そうすればすべてのものは、それに加えて与えられる。一日の労苦は一日で足りる」(参:マタイ6・33~34)というあの有名な言葉、そのままではないかということです。働くとか、仕事をするとかいうことは、つまりはこのことではなかったかと思うのです。だとすれば、私たちは、ほんとうに難しい局面にあっても、目の前にある困難が、とても難しそうであっても、まず与えられた仕事をすることによって、自分の問題はやがて自ずと解決されるということでしょうか。それが自分が一番に望んでいた解決ではなかったとしても、です。そして、きっと、この方が良かったと思うに違いありません。

2016年09月29日の心の糧

仕事と私

阿南 孝也

今日の心の糧イメージ 大学の工学部に入学した私は、将来は研究者になろうと考えていました。月曜日から土曜日まで大学で勉強し、日曜日は教会でミサに与り、小学生の教会学校や中高生会のお世話をするという生活でした。小学生のクリスマス会やキャンプファイヤー、中高生との富士登山は楽しい思い出です。このような毎日を送っているうちに、子どもと接する仕事をしたいという思いが、次第に強くなっていきました。そして大学を卒業してから教員免許を取って、ようやく教師になることができました。

仕事のことを英語でコーリングとも言いますが、これは呼ぶという意味の言葉です。神様に呼ばれたと言うとおこがましいのですが、私にとって教師は、生活費を得る手段を超えて、生き甲斐であり、生涯をかける値打ちのあるものなのです。

可愛い中学1年生にあいさつの大切さを教え、よい習慣を身につけるよう導くことは学校の大切な役目です。授業やクラブ活動、文化祭やクリスマス行事などを通して、乾いた砂が水を吸収するように、子どもたちは様々なことを身につけて成長していきます。その場にいることが許される喜びを感じずにはいられません。

カトリック学校に勤務しているお陰で、信仰を見つめ直す機会もいただくことができます。生徒たちと一緒に日雇労働者の街へ米を届けに行ったこと、ハンセン病の療養所に出かけたこと、イスラム教のモスクで礼拝し、聖職者から話しを伺ったことなどは、すべて生徒たちとの話し合いの中から生まれたものでした。引率という形で私も参加させていただき、心の目が開かれ、多くの気づきをいただくことができました。

これからも生徒たちと共に成長できるように、与えられた役割を喜びのうちに果たしていきたいと思っています。


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