第54課 毒麦のたとえ話(マタイ 13・24~30、37~43)

 イエズス様は引き続いて、種にまつわるもう一つのたとえ話をお話しになりました。「天の国は次のようにたとえられる。ある人がよい種を自分の畑にまいた。ところが、人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。苗が育って実を結んだとき、毒麦も現れた。しもべたちは主人のところに来て「ご主人さま、畑にまいたのは、よい種ではありませんでしたか。それなのに、なぜ毒麦がはえたのでしょう』と言った。主人は、『敵意を持つ者の仕業だ』と答えた。そこで、しもべたちが、『では、わたしたちが毒麦を抜き集めましょうか』と言うと、主人は、『それにはおよばない。毒麦を抜こうとして、よい麦までもいっしよに抜いてしまうかもしれない。刈り入れるまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れのとき、わたしは刈る人に、(まず毒麦を集めて、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に人れなさい)と言いつけよう』と答えた」

 あとでイエズス様は弟子たちに、このたとえ話の意味を次のように説明なさいました。

 「よい種をまく者は人の子、畑は世界、よい種はみ国の子ら、毒麦は悪者の子らである。毒麦をまいた敵は悪魔、刈り入れは世の終わり、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が抜き集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそうされるであろう。人の子は天使たちを遣わして、つまずきとなるすべてのものと、悪を行なう者とを、み国から抜き集め、燃え盛るかまどに投げ入れるであろう。そこには、嘆きと歯ぎしりがある。そのとき、正しい人は父の国において太陽のように輝くであろう」

 この話によりますと、世の終わりの最後の審判の時、悪人と善人が分れて、悪人は地獄の苦しみにおちいり、善人は天国の喜びに入ります。しかし、この善人と悪人は誰でしょうか。この世の中に全く欠点のない人はいません。又、全く良い所のない悪人もいないと思います。イエズス様がおっしゃった善人は自分の欠点を直して、悪を避け、神様のみ旨にかなうように努める人で、悪人は神様と、神様がお定めになった道徳を無視して勝手な生活を送っている人だと思います。

(つづく)