第37課 心の清い人は幸いである、
       その人は神を見るであろう(マタイ 5・8)

 私たちは、清潔で快適な生活を送るために体を洗い、衣服を洗濯し、家を掃除したりします。しかし、イエズス様のみ言葉によりますと、本当の幸せを経験するためには、そのような清さよりも、きれいな心を持つことの方が大事なのであります。

 イエズス様がおっしゃった「心の清い人」は、罪の汚れのない人のことを意味します。悪い行いを避けるだけでなく、自分の心からすべての傲慢と、憎しみと、不潔な考えを、いつも取り除くように努めている人のことです。そのような人は幸いであり、神を見るであろうと、イエズス様は教えられました。

 もちろん神様は霊的な方ですから肉眼で見ることは出来ません。しかし、信仰によって神様を知ることができます。そして、信仰深い人は神様を愛し、罪の汚れを避けて、神様のみ旨にかなうように努めますから、だんだんと神様と共に生きていること、つまり、神様と結ばれていることを経験するようになります。その意味で、そのような人は心の目で神様を見るのです。

 また、聖書によりますと、「心の清い人」は死んでから精神的な意味で「顔と顔を合わせて」神様を見るようになります。(コリント前書13・12)

 これは最高の幸せであり、その時、初めて人の心は満たされます。その完全な幸せを得ることは、私たちの人生の目的です。「心の清い人」はその目的を果たしますから、その人たちは幸いであると、イエズス様は教えられたのであります。

(つづく)