第36課 あわれみ深い人は幸いである、
       その人はあわれみを受けるであろう(マタイ 5・7)

 「あわれみのある人」は寛大な心の持ち主で、周りの人々の欠点と罪をゆるし、悩んでいる人を出来るだけ慰め、苦しんでいる人や困っている人々に手を差しのべて、出来るだけ彼らを助けます。その意味で「あわれみ深い人はあわれみを受ける」とイエズス様はおっしゃいました。

 いつも人々にあわれみを示している人は、あやまちを犯した時、人々にゆるされ、困っている時には人々に助けられるはずです。しかし、イエズス様が、「あわれみのある人があわれみを受ける」とおっしゃったのは、そのことよりも、神様のおんあわれみを受けることをお示しになったのだと思います。

 私たちは死んでから、一人ひとり神様の審判を受けなければなりません。けれども私たちは皆、罪びとですから、その時、神様のおんあわれみを受けなければ、罪のゆるしと、永遠の救いを得ることが出来ないのです。聖書によりますと、今の人生において、人々にあわれみを示さないならば、神様のおんあわれみを受ける資格はありません。新約聖書の『ヤコブの手紙』には次のように書かれています。「あわれみを示さなかった者に対しては、あわれみのない裁きが下されます」(ヤコブ2・13)

 これは恐ろしい言葉ですが、幸いにして今、私たちには神様の審判を受ける準備をする機会があります。この世に生きている間、出来るだけ人々に対して親切な態度を取り、あわれみを示すように努めるならば、最後の審判の時に神様のおんあわれみを期待することができます。その意味で、イエズス様は「あわれみ深い人は幸いである」とおっしゃったのであります。

(つづく)