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自分らしく

森田 直樹 神父

今日の心の糧イメージ

一般的に、ある信仰を貫いた結果、死ぬことになることを「殉教」といいますが、この「殉教」という言葉は、ギリシャ語では「証しする」という意味があるそうです。したがって、信仰を証しした結果、死に至ることが本来、「殉教」と言われるわけです。

「信じること」そのものは、なかなか目に見えません。とても小さなことのように思えますが、「信じること」によって、人は変えられていきますし、その生きざまに力強さを与えてくれます。何かを信じて生きることとは、1人1人を支え、励ましてくれるのだと私は思います。

「信じること」のあり方は、1人1人異なります。同じ神さまを信じていても、信じる生き方は1人1人違うのです。なぜなら、人は皆、同じ考え方を持つわけではないし、同じ行動をとるわけでもないからです。誰かのまねをしたから、それが成し遂げられるわけではありません。1人1人が自分の在り様を証ししながら生きることなしに、本物の信仰を生きることはできません。

自分の弱さや欠点を受け入れながら、また、周りの人たちとのしがらみをも受けとめながら、それでも前を向いてしっかりと自分らしく生きていくことなしに、「証しして生きる」ことはできないのです。

神さまは、私たち1人1人をロボットとしてお造りになったのではなく、自ら考え、行動する自由を持つ存在としてお造りになりました。そして、1人1人の違いはあっても、1人1人がかけがえのない存在として造ってくださいました。

私たち1人1人が、自らの良さを認め、自らの光を輝かせて生きて、続けていくことが、現代における「証しして生きること」。言い換えれば「殉教」なのだと私は思います。