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2人3脚

越前 喜六 神父

今日の心の糧イメージ

子どものとき、運動会で2人3脚のかけっこをしたことがありますが、見事に転びました。

そういう失敗が表しているように、わたしは孤独型の人間なので、他者との協調性が欠如していました。大勢の兄弟の中で生まれ、育ちながら、なぜこういう性格なのかよく分かりませんが、いちじるしく内向的で、他者嫌いな傾向は今でもあります。神父として失格と思いますが、しかし考えようによっては、この内向的傾向は、修道院に入って、神と交わるときには、役に立ったような気がしました。沈黙、瞑想、祈りなどが好きで、容易にできるからです。2人3脚というのは、わたしにとっては、誰かと一緒に歩き、走るということではなくて、神と一緒に歩くときのスタイルでした。

神と共に生きるというのは、神を無視した完全な自我意識で生きることでもなく、あるいは自己を完全に滅却して、ただ神のみがわたしのすべてになってはたらかれるような生き方でもないと思います。神はすべてにおいて、すべてであられますが、それと同時に、人間においては、我執という自我を無くすときに現れてくる、自己と言う本当の自分になって、自由に、主体的、しかも個性的に生きていくことではないかと思います。

神の右足にわたしの「我」という左足を結わいつけるとき、わたしの右足は、神の左足と調和して、ぐんぐん走ることができます。

昔、神学を学んでいるとき、ある神学の教授は、神の恵みのはたらきと、人間の自由意志のはたらきの関係について、こう言われたのを思い出します。「何事も100パーセント神のはたらきですが、同時に100パーセント人間のはたらきです」と。

人間に自己責任があるのは、そのためではないでしょうか。