第87課 金持とラザロのたとえ話(ルカ 16・19~31)

 イエズス様は放蕩息子のたとえ話に続いてさらに次のたとえ話を述べられました。

 「一人の金持がいた。彼は深紅の着物と細糸のリンネルを着て、毎日、ぜいたくに楽しく暮らしていた。ところが、この金持の門の所に、ラザロという貧しい人が座っていた。彼はできものだらけで、この金持の食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと望んでいた。犬までも寄って来て、その男のできものをなめていた。やがて、この貧しい人は死んで、み使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持もまた死んで、葬られた。

 そしてよみで苦しみながら目をあげると、はるかかなたに、アブラハムとそのふところにいるラザロとが見えた。それで金持は叫んで言った。 『父アブラハム、わたしをあわれんでください。ラザロを遣わしてその指先を水にひたし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでおります』 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい、おまえは生きている間に良いものを受けたが、ラザロは反対に悪いものを受けた。しかし、今、ここで彼は慰められ、おまえはもだえ苦しんでいる。そればかりか、わたしたちとおまえたちの間には、大きな淵があるので、こちらからおまえたちのほうへ渡ろうと思ってもできず、そこからわたしたちのほうに越えて来ることもできない』」

 ラザロという名前は「神様の御助け」を意味します。ラザロはみじめな生活を送っていましたが、神様の御助けを信頼しましたので、死んでから天国の永遠の幸せに入りました。しかし反対に、たとえ話の金持はぜいたくな生活を送りながら、神様を無視し、ラザロのように苦しんでいる人々に全く関心をもたなかったので、死んでから地獄の永遠の苦しみに陥りました。その金持と同じ態度をとる人は彼と同じ運命にあうであろうとイエズス様はお教えになったのです。

(つづく)